台湾台東に関わって40数年、その間に経験した楽しかったこと面白かったことびっくりしたことなど、現地の状況や日本との比較なども含めて紹介したいと思います。
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その後のタイワンザル調査(1983年〜1990年、昭和五十八年~平成二年)

第六次最後の墾丁公園の調査は、サルを見ることもなく聞き込み調査だけで終わってしまったが、広い公園内を歩いてみて、タイワンザルがいることだけは確信できた。
珊瑚礁が隆起して出来た穴だらけの岩山は、大木も少なく見晴らしもよく、地形的にはサルの観察に適している。しかし、岩に開いた穴には毒蛇が多く、テントなどの中にはムカデがよく入ってきて、あまり快適な調査とは言えなかった。

 1984年の第八次調査では、この墾丁公園で台湾大学との合同調査が実現した。台湾の学者や研究者が、お金に縁のないタイワンザルの調査をするのは当時としては異例のことである。台湾もずいぶん進歩したものだと感心した。
 そして、その後数年の内に、台湾大学の動物学系の林教授と呉さんを中心とする学生達によって、この墾丁公園内のサルの全貌が明らかになり、一九八六年に中国語で論文が発表された。

 第六次タイワンザル調査以降の私たちの調査は、その後1989年の第一六次調査(1989年)まで続いた。
 
1986年の第十次タイワンザル調査までの主な調査地域は、サルが多いとされていた台東県全域と屏東縣の墾丁公園の二カ所だけだった。
 そこでの集中的な調査によって、タイワンザルの輪郭が分かってきた今、私は、台湾全域を調べる必要性を感じていた。
 そこで、第十一次調査からは、それ以外の地域にも足を伸ばすように努めた。

 私は特に、サルがあまりいないとされている西側から山に入り聞き込み調査を続けた。
 サルがいないとされているだけで、本当にサルがいないという確証は得られていない。従って、無駄足とは思われたが、それを確認する必要があったのである。

 先ず手始めに、台北から桃園に至る西部幹線の鉄道の山側から調査を始めた。
 各駅停車の列車に乗って、山のない萬華(ばんか)と板橋(パンチァオ) の二駅を飛ばし、樹林(スーリン)、鶯歌(インコー)でそれぞれ降りて、数時間山の方に歩き聞き込みをするという、孤独でむなしい調査だった。
 もちろんサルなどいる訳はなかったが、この時痛切に感じたのは、西側は日本語があまり通じないという事だった。
 
 その日から、私は夢中で台湾の国語(北京官話)を勉強し始めた。言葉が通じなくては、聞き込み調査が出来ない。そのお陰で、今では生活に不便を感じないくらいは話せるようになった。
 殆どが独学で、先生はアミ族の友人達だったために、今でもあなたの国語は「原住民中国語」だと言われることが良くある。

 さらに、アンケート調査の確認のために、台北から中央部の新店(シンテェン)、 さらに奥のお茶で有名な坪林(ピンリン)やタイヤル族の住む烏来(ウーライ)にも行ってみたが、サルは確認できなかった。

 少数民族であるサイセット族(当時の人口1000人)の村、五峰(ウーフォン) に行きさらにその奥に入ろうとしたことがあった。
 新竹(シンツー)から竹東(ツートン)まで列車に乗り、そこでバスに乗り換えて五峰の少し手前まで来たとき、検問所があった。
 私はその時かなり汚くみすぼらしい格好をして、麦わら帽子を深々とかぶっていた。できるだけ原住民のオジサンのように装っていたのだ。ゲートの前でバスが止まり、警察官が乗り込んできた。
 一人一人をジーッと見ながらチェックしている。最初、私を気に留めていなかったように見えたので、何とか誤魔化せると思いホッとした瞬間、後部座席にいる私の所に早足で近づいてきて、私の帽子をつかみ取った。
 お前はなに人だ?と聞かれ、仕方なくパスポートを見せると、手を掴まれて引きづり下ろされてしまった。
 実は、この先は現地の住人以外は入ることが出来ない特別区域だったのである。
 とにかくこの先には入れないから帰れと警官に言われ、特別に調書も取られずに、無罪放免となった。だが、帰ろうと思ったがバスはその日はもうない。仕方なく、まだバスのある隣の村上坪(シァンピン) まで4kmほど歩いて戻った。

その後も、とにかく色々な所に入り込み聞き込み調査を行った。谷関、日月譚、梨山、捕里、霧社、鹿谷、阿里山、旗山、三池門、六亀、甲仙、梅山など上げればきりがない。
おかげで、台湾の人と話をしても殆どの場所は分かるし、かえって、私の方が詳しいということもあった。
そんななかで、タイワンザル調査もそろそろ潮時かと感じ始めていた。

 初めてタイワンザル調査を始めてから、何と二十二年と半年の年月が経過したことになる。そして、当時十八歳だった私もすでに四十歳になっていた。

 私たちの二十年に及ぶタイワンザル調査の成果は、1986年に世界的権威のあるサルの学術研究誌「プリマーテス」(PRIMATES)に掲載された。
 他にも、断片的な内容に過ぎなかったが、雑誌「モンキー」(モンキーセンター)等にも時々マカク研の仲間が報告を書いた。

 途中十年間の中断はあったが、二十二年で、延べ四十名が延べ日数1582日間の調査を行ったことになる。その調査で、台湾全域で99カ所のタイワンザル生息地を確認した。
 特に、私とMとTは、人生のほとんど半分をタイワンザル調査と台湾に費やしてしまった。
 それにしても、20年、延べ40名(実質15名)が延べ1582日(実日数で4年半近く)かけた研究成果が、たった10ページの報告書では、若者がサルの研究に付いてくる訳がないだろう。
一昔前ならともかく、最近では、やれDNAだ遺伝子だと、それが分かれば全ての生物や生命が分かってしまったかのような、実験室での生物学が脚光を浴びている。
 そんな中で、汗水たらして膨大な時間を費やしての研究から生まれるほんの僅かな成果は流行らないし、そんなことをしても研究者としての出世街道からはずれてしまう。
でも、私たちのような地道な研究は、色々な意味で人間の未来に警鐘を鳴らすきっかけとなるはずである。

 特に、人口が益々増えるこの美しき地球の中で、どう人間と自然が共存して行くかということは、昔から多くの人々が様々な判断のもとに、種々の規則や法律を作り試してきたものだが、なかなかうまくいっていないのが現実である。
 ルソーではないが、今私たちはある意味での「自然に帰れ」を、もう一度深く考えて見るべきなのではないだろうか?

 自然破壊による動植物の絶滅や激減は、私たち人間の未来をも予告している様に思える。 便利さや楽しさの追求の結果が、私たちホモ・サピエンス(知恵のある人という意味だが…)の種の絶滅にも繋がる恐れがある。
資本主義も共産主義も、或いは全ての主義思考は、いずれにしても全てが人間中心的な、現実中心的な考えとしか思えない。
研究仲間のMが「ニホンザルの自然史ーその生態的多様性と保全」にも書いているが、今私たち人間は、ニホンザルやタイワンザルに学ばなくてはならないことが沢山あるような気がしてならない。
 そして、先人の知恵にも学ばなければならないと思う。
昔の人間は全ての自然に対して、計り知れない謙虚さと知恵を持っていた。その謙虚さや知恵が、何十万年間ものヒトをはぐくんできたはずである。
 現代の人間が、自然が規則や法律で保護できるなどと、大それた事を考えること自体間違っているようにさえ感じる。
これからの、かけがえのないヒトと素晴らしい自然を考える上でも、ニホンザルやタイワンザルは、私の人生に色々なことを教えてくれた。
日本と台湾のサル達と、私の関わった日本と台湾の自然と人々に心から感謝したい。

タイワンザルは、その後も台湾大学に引き継がれ調査が進められている。
 したがって私の今やるべき事は、さらにタイワンザルを調査研究する事ではない。
 台湾で絶滅したとされている動物や、絶滅の危機に瀕している動物について調べ、記録を取っておくことである。

私はそう確信して、第一六次タイワンザル調査を最後に、一九九〇年からウンピョウ、タイワンカワウソ、タイワンセンザンコウ、スイロク、タイワンツキノワグマ、タイワンカモシカなどのタイワン特産種である大型哺乳類の調査に乗り出した。
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[2011/11/14 01:13] | タイワンザル
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第六次知本 (1982年8月、昭和五十七年八月)〈群れの全貌〉

数日後、私たちは知本のホテル「秀山園別館」にいた。
本来なら、紅葉荘に荷を下ろすところだったが、紅葉荘は既に以前のオーナーである黄さんから人手に渡っていたし、紅葉荘で猿について詳しかった川口さんは、原因不明の病気で急死してしまっていた。
 私たちはこの知本で、ホテルの裏山の斜面に出るタイワンザルを観察することになっていたので、その観察に一番都合の良さそうなホテルを、料金のことも考えて選んだまでのことである。
以前知本溪に架かっていた赤い吊り橋はコンクリートの橋に変わり、橋の入り口にはゲートが設けられていて料金所があった。知本温泉はすでに観光地化されて、橋の奥に入るには車一台あたり知本温泉受益費という名目で五元の料金がかかるようになっていた。
もともと三軒しかなかったホテルや旅館も、今では大小合わせて六軒に増え、さらに道沿いに食堂や土産物屋も数多くできていた。

 知本温泉最大のホテルである知本大飯店は、全く以前のままの姿をとどめていた。週末には駐車場が大型観光バスで一杯になるというのも昔のままであった。
 このホテルは昔からちょっと高かったので泊まったことはなかったが、初めて来た時にレセプションにいた感じの良い可愛らしい女の子が、T先輩と良い仲になりそうになったことがあったし、何回か朝食を食べたこともあった。今では全てが懐かしい思い出となってしまった。
温泉旅館の前には、道を挟んで結構立派な堤防が作られていて、その上は遊歩道になっていた。階段を上って土手の上から知本溪を見ると、河側斜面には、相変わらず湯治に来ている原住民達の小屋がけがずらっと並んでいた。
 小屋がけのある前の河原には、彼等が掘り返した天然の露天温泉がいくつもあって、夕方近くになるとあちらでもこちらでも、楽しそうに談笑しながら温泉に浸かっているお年寄りの姿が見えた。

私たちは、知本溪の南側にある紅葉荘の裏の斜面を中心に観察を開始した。この斜面は、私が世界で初めての野生タイワンザルの写真を撮った場所でもある。
猿が現れる可能性が最も高く、土手の上から見ると斜面全体が手に取るように分かる。土手の上に三脚を立てて望遠レンズを取り付けたカメラをその上にセットして、ポケットにはフィールドノートとボールペン、双眼鏡を首からぶら下げて猿の現れるのをひたすら待った。三脚の上に300mmの望遠レンズを取り付けたカメラは、遠くから見るとまるで機関銃のように見える。
 土手の上を散歩する台湾の観光客は、何事が起こっているのか…何をしているのか…というような目つきで、私たちの前を通り過ぎて行く。
土手の上は石畳になっているが、石が不規則に飛び出しているから、座り心地は良くないし、暫く座っているとお尻が痛くなる。
 立ったり座ったり、朝の5時から夕方の7時までの間、交代で観察を続けた。二人が組になって二時間ずつ、一日三回から四回、六時間から八時間もじっと見張っていなければならない。
それでも、朝夕は少し涼しくなるからいいが、日中は熱地獄のような暑さになる。竹の笠をかぶったり、タオルを頭に巻き付けたり…今考えるとよくもこんな状況で我慢したものだと感心する。
土手の前の道を挟んで、お土産屋があった。そこには色々なお土産、ちょっと変わった石や水牛の角、乾燥椎茸とか菊花茶や金針花なども売っていたが、アイスクリームや冷たい飲み物などもあった。
暑くてたまらなくなると、大声でおみやげ屋のおばさんに「紅茶二杯(フォンツァーリャンペイ)!」と叫ぶと、500ccの大グラスに冷たい紅茶を出前してくれる。これがなかったら、この知本でのタイワンザルの観察は耐えられなかったかも知れない。

おみやげ屋のおばさんにとって、私たちは上等のお客だ。でも、冷たい紅茶を運んできてはいつも怪訝そうな顔をして同じ事を聞く。
 「あんたたち、何してる?」
「猿を見てます」
 「猿見てどうする?捕まえて食べるか?」
 「調べてるんです。」
 「調べてどうする?」
 「論文を書いて、発表するんです。」
 「そんな事してどうする?」
 「………???」
 今度はこっちから質問した。
 「おばさん!猿見たことあるでしょ?」
 「ああ、毎日見てるよ。」
 「何時出てきますか?」
 「いつも出てくるよ。」
 「何時頃?」
 「決まってないね。雨が降ると必ず出るよ。」
 「今度、出てきた時は教えてくださいね!」
 「ああ…。」

こんな会話を今まで何回したことだろう。 その後、おばさんから何回か猿が出てきたことを教えて貰った。結構良いおばさんだ!
 
猿が出る知本温泉の斜面は、正式には西川山北斜面と呼ばれる。幅は400mほどで、下面には植林されたシマトネリコ・フカノキ・カタン・ムクイヌビワ、そして向かって左手は竹藪となっている。この竹藪には、時期になるとキヌガサタケがよく生える。
中腹は亜熱帯天然林が保存されていて、シロガジュマル・カジノキ・ムクイヌビワ・ヤンバルアカメガシワ・カタン・オオバアコウなどが生い茂っている。この時期のタイワンザルは、ムクイヌビワの実を好んで食べているようで、斜面右手のムクイヌビワの木が、私たちの観察している中でも最も注目している木であった。

 そして、私たちの期待通り、このムクイヌビワの樹冠で多くのタイワンザルの菜食風景を観察することが出来た。それも、毎日のようにタイワンザルはこのムクイヌビワにやってきた。
朝六時頃になると、斜面上方からバッサバッサと木を揺すらせて猿が降りてきた。時には、昼間突然にムクイヌビワの付近に姿を現して、私たちを驚かす事もあった。
 
今まで一度もタイワンザルの群れの全貌が観察されたことはない。この群れ構成が分かると、ニホンザルとの比較という点でかなりの新事実が明らかにされるはずである。猟師や山で働いている人などの、タイワンザルの群れの目撃例などを検討してみても、なかなか群れの平均的な規模や行動範囲などは分からなかった。
ある日、この群れが斜面左側中断の岩場を伝って移動する光景を目にすることができた。 まさしくこれも世界で初めての野生タイワンザルの移動風景であり、またそこから群れの全貌も明らかになった。四季のある日本では、落葉した見晴らしのよい冬場の山で観察すれば、このようなことは容易いことであるが、台湾の様な一年中緑に覆われた山の中では、よっぽど運がよくなければ無理な話である。群れ全体が、開けた岩場や草原に出てくることは皆無に等しく、運が良かったとしか言いようがない。
この後の十数年間でさえ、墾丁公園(こんていこうえん)の十一頭の群れが判明したことと、太平山で群れのおおよその規模が観察された三例しかない。

観察三日目のことだった。
朝十時頃、斜面右手に猿の気配がしたかと思うと、林の中から猿の姿が浮き上がってきたかのように、あちこちに同時に猿の姿が見えだした。樹冠部を転がるように遊びながら枝渡りをしている子猿の一団。例のムクイヌビワの上で、しきりに菜食をしているメスザルもいる。まるで、日本の野猿公園に餌付けされた猿が一度に出てきたような光景であった。
 いつの間にか、私たちも全員が土手の上に来て観察を始めていた。皆、てんでんばらばらの方向を見ながら、観察しメモを取っている。しかし、考えていることは皆同じだった。いったい何頭の群れなのかと言うことだ!
猿たちは葉陰に見え隠れしながら、枝を伝って下に降りていくのもいるし、そして突然また現れたりする。声がする方を見ても姿は見えない。これでは一体何頭いるのか分からない。おおよその見当では、三十頭から六十頭くらいだろうか?でも、あまりにも幅がありすぎる。

 今までに野生タイワンザルの群れ構成は、一度たりとも確認されたことがない。猟師から聞いた数は、あまりにも漠然としていて役に立たない。一頭から五百頭。一頭は、離れざる(ソリタリー)として納得できる。数頭から数十頭も、サブグループやオスグループと見れば問題はない。しかし、五百頭はあまりにも多すぎると思われるが、何しろ確認されたことがない以上何とも言えない。

 先ほども触れたが、日本の野生群であれば、群れ構成を確認する機会はいくらでもある。群れが林道や山道を横切る時、冬期の見晴らしの良い林の中や雪の上など…。
 それに比べて、台湾では一年中常緑樹に覆われ、林床には背丈ほどもある草や蔓性の植物が生い茂っている。林の中、それもジャングルのような中で、猿を追ったり猿の数を数えることなどとても出来る話ではない。それに、その辺りには私の大嫌いな毒蛇も多いし、足場も悪い。

 突然、群れ全体が斜面の左方向に移動し始めた。小さな集団を個々に見るとバラバラな動きをしているように見えるが、全体をよく見てみると、確かに左方向に移動していることが分かる。さらに、移動行動が徐々に規則的になってきて、暫くするとほぼ一列状態で
移動を開始しだした。
 子供を腹に抱えているメスザルもいる。途中の、太い木の枝を一列になって渡っている。ちょうど、そこの部分だけ他の木の葉が邪魔をせずに、穴が開いたようになっていてよく見えるが、いかんせん少し薄暗い。数は数えられても、群れの構成までは確認しきれない。それに、私たちが数え始める前に、すでにそこを渡りきってしまった猿もいた。それでも、何とか群れ構成を確認しようと皆必死になっていた。
 「あっ!オスザル二頭、とその後ろをメスザル三頭、一頭は腹に子供!」
 「それさっき、Tが数えたやつだろ?」
 「若者ザル二頭、突然オスザル一頭現れる!」
「その現れたやつはさっき数えたか?それともまだ数えてないか?」
 「どこのどの猿だ?」
こんな調子だから、時間が経つにつれてますます混乱してくる。
 梨嘉の裏山でもそうだったが、焦るとどうにもならない。それも、四人で焦ったら、収拾がつかない。

 その時、隊員の一人が叫んだ!
 「あっ!あそこ!」
 なんと、斜面左手中段に岩場があって、Sこを大名行列さながらに、猿の群れが綺麗に一団となって移動しているではないか。
 
 一人が肉眼で全体を見る。二人が双眼鏡で、オトナオス・オトナメス、ワカモノオス、コドモ、オトナメス腹にコドモ、などの確認をする。そして、私がそれを記録する。
こんな事はとても簡単に見えるが、実際にやってみるとなかなかどうしてスムーズには行かない。
 群れを発見してから役割を決めていたのでは、それだけ記録を取るのが遅くなり、見逃すことも多くなってしまう。とっさの判断で、その時の自分のいる位置と持っている物によってそれぞれがそれなりの判断をして、観察行動を取る。
 さらに、群れが移動して通過する場所の基準を、あうんの呼吸で決定する。そうしなければ、ある猿を二回数えたり、数えない猿が出てきてしまう。
 もう何十年も一緒に野外で調査をしていると、その辺の見極めが実に上手くいくのだ。まあ、長年付き合った腐れ縁の成果と言っても良いかもしれない。

「やったー!」
 群れが斜面の裏側に移動した後、私たちはそれぞれにそう叫んでいた。緊張がほぐれて、ため息を漏らしている者もいた。
 そして、頭をぶつけ合いながら私の記録したノートを覗き込む。一瞬の沈黙…。
 オトナオス二頭、オトナメス十三頭、ワカモノ四頭、コドモ十一頭、アカンボウ十頭、性年齢不明五頭、合計四十五頭の群れであった。

この日の昼食は、いつもの通りおみやげ屋の隣の「喜品小吃部(シーピンシャオツープー)」 (喜品食堂)で食べたが、当然いつもの什錦麺(すーちんみぇん) (五目そばの一種)や海鮮麺一杯では済まなかった。
不明個体五頭という数値は残ったが、これは実験誤差の様なものである。とにかく、初めて、野生タイワンザルの群れ構成を確認したのであった。
タイワンザルは台湾の固有種であるから、当然世界で初めてと言うことになる。「世界で初めて」何と心地よい響きであろうか!
 所詮、私たちはこんな事に喜び、感動し、こんな事のために汚らしい格好で野山を駆け回る人種なのである。

「乾杯(カンペイ)!」
大きな声を上げて、飲み干したビールは格別美味しかった。

この群れはその後も数日おきに、ムクイヌビワやガジュマルの菜食樹に現れた。
 また、この群れの現れない時には、離れザル(ソリタリー)や、六頭ほどのオスグループが確認された。
さらに、猿の活動が朝夕に集中していることや、樹上の利用頻度が比較的高いこと、また、複雑に絡み合った木々の中や樹冠部をつたって、ある定まった移動経路があること等も認められた。
 北斜面の広さから推定すると、おおよそ二平方キロメートルほどの行動域を持っていることも推測できた。

 群れのサイズは、野生ニホンザルの平均的群れサイズとほぼ同じくらいであるが、群れ構成を見ると、オトナオス二頭というのは、四十五頭の群れサイズにしては少し少ないように思えた。
とにかく色々な地域の正確なデーターがもっと必要である。分析をするのはそれからでも遅くない。
知本温泉で観察すれば、ほとんど毎日のように猿が出てきて観察が出来る。しかし、私たちの初期の目的は、台湾東部地域に生息するタイワンザルの分布調査である。地味な調査ではあるが、この調査をしないで次の段階には進めない。
 私たちは、アンケートの結果を頼りに、次の候補地を海岸山脈に決めた。

 八月十二日の昼過ぎ、十二日間の知本温泉の調査にいったん区切りをつけて、知本温泉に別れを告げた。

[2011/11/12 00:12] | タイワンザル
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第六次海岸山脈(1982年8月、昭和五十七年八月)

海岸山脈は、台東市の北、都蘭山(1189m)から北北東の花蓮方向に延びる山並みで、大部分が火山岩から出来ている。別名都蘭山脈とか台東山脈とか呼ばれていて、最高峰は新港山の1682mで、その頂上の位置は平面で海岸から 7kmしかない。
 したがって、平均斜度は15度近くにもなり、都蘭山付近では15度を超す。海から山の間には、当然海岸、国道、畑や水田など比較的平坦な場所があるから、海岸山脈の海側は、山の途中から大断崖となる。
そしてこの連続した大断崖がコバルトブルーの海と重なり合って、台湾有数の景勝地「東部海岸風景特定区」を作り出しているのである。

 山が急峻で、人の近づけない断崖が多いと言うことは、それだけタイワンザルがいる可能性も高い訳で、事実アンケート調査の結果でも、この地域からの情報が多かった。それに、第四次、第五次の二度の調査でも、この都蘭山系でタイワンザルを確認している。

M大学による第四次調査では、五名の隊員が一ヶ月間、知本と都蘭の山に入った。しかし、タイワンザルの観察は、知本で二回、都蘭で三度それもごく短時間確認しただけに終わった。
 また、第五次調査では、都蘭山と都秀山(827m)を結ぶ尾根の東側の谷で、同一群を断続的に四日間で四回確認し、また一部観察も行われた。この群れは、十五頭から二十頭くらいの群れで、木ゆすり行動やグルーミング行動も観察されたが、地形的に100m以上も離れた所からの観察しかできず、細かなことは一切分かっていない。それでも、群れの大きさなどについて、断片的に推定できる程度の成果があったと言って良いだろう。

私たちは、四日分の食料を準備し、成功(ツェンコン)(以前は新港(しんこう)と呼ばれていた)行きのバスに乗り込んだ。約一時間半の間、美しくうねる海岸線と、ブルーに輝く太平洋を眺めて過ごした。
東河(トンホー)でバスを降りると、虎さんが紹介してくれた二人の案内人が待っていた。
一通りの挨拶をして、約束の案内料として、一人二百元を渡した。二人の案内人は受け取ったばかりの二百元を持って、そそくさと近くの雑貨屋へ入り、一人二本の赤いラベルの米酒を大事そうに抱えて出て来た。高砂族にとっては、ビンロウ、米酒、タバコが生活に欠かせない三種の神器のようである。

案内人の後について、山の方に向かって歩き出した。
 村から山麓までは、所々にコウスイガヤ(香水茅、レモングラス)の畑がそのまま手入れもされずに残っていた。海岸山脈の東側は土地も狭く水も少ないために、水田はあまり多くない。一昔前までは、水の少ない土地にはこのコウスイガヤを植えて生計を立てている農家も多かった。
レモングラスと言えば、最近では香料や料理・漢方薬として欠かせないハーブだが、当時はその主成分のシトラールを石けんや化粧品の香料として利用していた。しかし、シトラールが工業的に合成できるようになってからは、この辺りのコウスイガヤの畑も荒れて、あちこちに痕跡が残っている程度になってしまった。
コウスイガヤの畑を抜けると、前面の断崖まで土地の起伏に合わせて、棚田が広がっていた。二回目の田植えから一月ほど経っているようで、遠くの水田は太陽の光に反射して萌葱色に輝いていた。

 ゆるい登りにかかると、雑草が押し倒されて出来た車の轍も消え、道幅も急に狭くなった。少しずつ、少しずつ、大断崖が近づいて来る。右手の山の切れ込みから、階段状の水田が扇形に下に向かって続いている。上の田から下の田へ落ちる水の音が涼しげに心地よく伝わっては来るが、私たちの暑さと汗を静めるほどの力はなかった。
ビンロウ樹に囲まれた人家が途切れる頃、大きな龍眼の木陰に建てられた小さな作業小屋についた。まるで、子供の頃庭の片隅に遊びのために造った小屋のような作りで、入り口も狭く、背の高さほどしかない。彼等は、水田作業の合間にここで休んだり、食事を取ったりするのだろう。薄暗い内部は、煮炊きした煤で真っ黒になっていた。

二十分ほど経った時、ひょいとアミの青年が現れた。髪は赤く焼けて、身体は木の枝のように細く、着ている物もたいそう粗末なもので、裸足であった。
 時折私たちの方へ目を走らせながら、案内人の二人と何やらアミ後で話をしている。話が一段落したらしく、青年は小屋に入り、腰に蕃刀を下げゴム靴を履いて出て来て、二人の案内人と伴に私の前に立った。案内人の一人が話し出した。

「Nさん、この人は“高(こう)”さんと言いマス。この近くの山のことはとてもよく知っていマス。私たちはそれほどよく分からないので、この人を一緒に連れて行きマス。一日二百元と話しましタ。先に二百元渡してください。後は降りてきてからで良いでショ。」

 そう言えば、虎さんが今回の山行きの案内人の件で、確かに言っていた。
 「…後は二人の案内人が何とかしますから、大船に乗ったつもりでいてください!」
こういう事だったのか?
 
 「この高さんは、アミ語しか喋れないンダ。だから私達も一緒でないと、あなた困るでショ。それにこの青年は字も書けませんから、筆談も出来ないンダ。」
確かに困る!
 私は二百元をその青年に手渡した。
「謝謝!アリガト」
どうやらこの程度の中国語と日本語は理解できるようだ。彼は二百元をズボンのポケットにねじ込んだ。
結局、五名の隊員に三人の案内人がついた。当時、駅弁一個が四十元だから。二百元は、隊員五人の一回分の食事代に匹敵する。毎日、六百元が飛んでいくことになるわけだから、五人の一日の食費が全部消えてしまうのと同じ事だ!
 学生時代だったら、お金を出してまで案内人を頼むことなど考えもしなかったが…、学生でなくて良かった。この案内料は私たち日本人にとって、そう高いものとは思えなかったが、彼等にとってはたいそうな現金収入であろう。さらに、彼等の食事も全部こっち持ちになっていた。
出来れば案内人は一人で良かったのだが…。

 私たちは、一本の沢をどんどん登り詰めていった。道がないので、沢づたいに歩くしかなかった。滝になっている所では、蕃刀で木をなぎ倒しながら沢を巻いて登った。
 青年は、沢の石をひょいひょいと跳び回り、、夕食用のカエルとサワガニを捕りながら登っていた。
 私たちの荷は重く、必死になって彼等を追うので、歩くだけで精一杯であった。浮き石もあるし、とにかく薄暗い沢の中だからよく滑る。慎重になれば遅れるし、遅れまいとすると危ない。五人とも、何度も沢の水に足を取られながら、無言でただひたすら登った。
 五人の中でも特に運動不足の三十四歳の私には、かなりきつい行軍であった。
 苦しい時には、頭の中を空っぽにして、山歩きの機械になったつもりで歩くのも一つの方法であるが、雑念がちぎれ雲のように脳裏を掠めだすと、よけい辛く苦しくなる。
 単純な山登りなら、頂上に辿り着いた時のあの清々しさを思い浮かべながら、我慢して歩くことも出来る。しかし、今はどこが終着点かも分からない。
この時の私は、今まで経験した最も辛かった体験を思い出して、それよりはまだ楽なのだと、自分を励まして歩いていた。

 学生時代、探検部の合宿ではずいぶん無理をしたものだ。今この年になって考えると、信じられないことも多かった。
大学2年の時、八ヶ岳で行った新入生歓迎合宿兼、雨池山岳湖沼調査合宿では、30kgもあるゴムボートをキスリングの上に載せて登った。
徹夜麻雀で一睡もせずそのまま合宿に参加して、奥秩父山塊の国師ヶ岳・金峰山へ登ったこともあった。その時は自分が先ずダウンするのではないかと心配していたが、先にカゼでダウンした後輩のキスリングを、自分の荷物の上に載せて登り切った。
無人島宇治群島の向島での、酷暑の中でのヤブコギ。冬山登山合宿の中での、猛吹雪の中でのラッセル。どちらも辛くて苦しくて死ぬ思いであった。
 あの頃は、若さという自信で無茶も出来たし、本当に気合いも入ったものだが、三十代で体力の衰えを感じた時は、自分が自分でないと感じるくらい驚き、ショックを受けた。 その後も、五年から十年に一度、同じようなショックを感じ続けているのだが…。

四時間ほど登っただろうか。すでに沢の水はなくなり、涸れ沢となっていた。
 太陽も西に傾き、上り詰めていた東側斜面は薄暗くなりかけて、高度のせいか幾分涼しくなってきたように感じた。
青年が、二人の案内人に何かを話している。登っている間、彼は一言も口をきかなかった。しばらくして、涸れ沢の左にテラス状の十坪ほどの草地が現れた。
 案内人の指示で、今日はここに泊まることになった。
 直ぐにテントを二張り張った。草地で平らに見えるが、下は石がごろごろしていて、テントを張る前に少し整地はしたが、張ってみると下はやはり石だらけであった。
草地の両側にテントが張られ、その中間が炊事場になった。
皆が手分けして、火をおこしたり、夕食の準備と荷物の整理に取りかかる中、実は私は直ぐに下山しなければならなかった。
東河から20kmほど離れた成功(新港)へ、ある人を訪ねるためである。何でわざわざ登ってきたのかというと、荷物運びのためと、東河の山奥の様子が知りたかったからである。
 わたしは、サブザックにカメラ類を押し込み、一人でたった今苦しい思いをして登ってきた沢を、一時間で駆け下りた。

東河の国道に出ると、ちょうど成功行きのバスが通りかかったので、手を挙げて乗せて貰った。

新港は、台東市の北北東50kmに位置する台東随一の漁港であり、現在は成功と改称されたが、地元の人々は日本時代からの名称である新港の名で呼ぶ人が多い。
東部海岸風景特定区の中に入っており、近くには三仙台や石雨傘などの観光名所も多い。

終点の公路局成功バス停に降り立ったのは、日もとっぷりと暮れた七時過ぎであった。
 道沿いの家前のあちこちでは、道路にテーブルと椅子を持ち出して酒盛りをしている。夕涼みと一家団欒と、そして宴会が一緒くたになったようで、何ともほほえましく羨ましい限りだ。
 今晩はとにかくどこかのホテルに泊まらなければならない。バス停から200mほど行った所にホテルらしいものが見えた。他に宿屋らしい建物は見あたらなかったので、そこに決めた。
隣の海鮮料理屋で、一人にしては久し振りに豪華な夕食をとった。
日本人が珍しかったのか、それとも日本人は金持ちだと思っていたのか、店のおばさんはしきりに新港の名物の魚や刺身を勧めてくれた。一人だとどうも気が弱くなって断り切れず、おばさんの勧めるままに、カジキの刺身、小ぶりだがキアマダイが一匹入ったスープ、二人前はあろうかというチャーハン、さらに瓶ビール一本もつけてしまった。締めて、日本円で一〇〇〇円、ホテル代が二〇〇〇円だから、やはりかなり豪華な食事ということになる。
 ピンクがかったカジキの刺身は、味は淡泊であるが私は結構好きだ。ただし、ワサビがだめだ。そして、醤油も頂けない。
 台湾のワサビは、日本のワサビと違って辛みが少ないために、大量に使わないと辛くない。その大量のワサビの中に醤油を入れてかき混ぜるから、ドロドロ状態になる。 
 台湾のワサビは紛い物だとよく言われる。しかし、日本のワサビにしても、一般家庭で使われる粉ワサビやチューブ入りの練りワサビは、本物のワサビだけで作られている訳ではなく、ホース・ラディッシュ(西洋ワサビ)が多い。だから、台湾のワサビについてとやかく言いたくはないが、それにしても辛くない。

そんなワサビ醤油に、綺麗なピンクのカジキの切り身を浸けると、コールタールを付けた様な不気味な状態になってしまう。コールタールとカジキの肉片が、口の中で美しいハーモニーを奏でる事などある訳もなく、そこを、新港のカジキは美味い!と言う絶対的な先入観で補うのだ。

醤油は、どちらかというと関西の刺身醤油に近い味で、さらに甘ったるいような、口を開けてから半年ほど経ってしまったような…そんな味だから、どうも頂けないのである。
私は、関東生まれの関東育ちで、ごく普通の醤油に慣れ親しんでいるから、さっぱりした醤油で刺身を食べないと、食べた時に気持ちも口の中もきゅっと引き締まらない。

最近では、日本のワサビも醤油も台湾で手にはいるので、問題はなくなったのだが、ワサビの量だけは変わらない。何と言ってもあのドロドロのワサビ醤油の歴史は、半世紀以上も続いていたのだから…。

次の日の朝、私は成功の鎮公所を訪れた。
 私は台東縣政府の秘書課長陳さんの紹介状を持っていた。さっそく、陳秘書課長の友人でもある王課長に会って、私たちの目的を説明し協力を求めた。
 私が今回新港に来た目的は、ある一人の台湾人に会うためであった。名を「潘(パン)」さんという。
昨年から今年にかけて行ったアンケート調査で、二九通の回答の中では、藩さんからの回答が最も詳しかった。どこの山に何群いて、群れの大きさはおよそ何頭ぐらいだというようなことが事細かに書かれていたのである。 だから今回の調査では、必ずこの藩さんに会って話を聞かなければならないと思っていた。 直接藩さんに会って話を聞くことも出来たが、藩さんはここ成功鎮公所の公務員であったことから、上司の承諾があれば本人も動きやすいだろうと言うことで、紹介状を貰い先ずは藩さんの上司王さんに会って話を進めようとした訳である。
王課長は、席を外すと直ぐに藩さんを伴って戻ってきた。
 体格の良い人だった。

藩さんは、狩猟が得意で、漢方薬の材料の採取や調合もするという。しょっちゅう山に出かけているせいか、日焼けして高砂族のように精悍に見える。四十歳半ばとはいえ、日本語は良く通じる。
早速彼のオートバイで、藩さんの家まで連れて行かれた。125ccのヤマハのオートバイは、たいそう年季が入っていたが、エンジンの音は良い。
 奥さんに紹介された後、直ぐにタイワンザルの聞き込みを始めた。
藩さんは、かなり正確にサルの生息地と群れの数を記憶していた。それに、サル以外の山の動物のことについてもとても詳しかった。
 居間の隅には、無造作にミサゴやキジの剥製が置いてあり、飾り棚には猪の下顎骨がいくつも並べられていた。他にも動物の骨や皮などがあちこちに散らばっていて、まるで博物館の準備室のようである。

 ぜひ、野生タイワンザルを見たいのです、とお願いすると、 
 「分かりました、昼飯を食べたら見に行きましょう!」
何とも簡単な返事で、呆気にとられた。
そんなに簡単に見られるのだろうか?
 
奥さんの作ってくれた焼きビーフンの昼食をご馳走になった後、私は藩さんのオートバイの後部座席に跨(またが)り、奥さんに昼食のお礼と別れを告げた。
藩さんの奥さんは外省人なので、日本語は一言も喋れない。藩さんとは年がかなり離れているのだろうか、藩さんに比べてえらく若く見えた。ぽっちゃりとした可愛らしい奥さんの口から「再見!」と小さな声がかすかに聞こえたと同時に、オートバイはけたたましい音を立てて、猛スピードで走り出した。
私は一瞬後ろに置いていかれそうになったのを全身で堪えたが、次の瞬間に左顔面を藩さんの背中に思い切りぶつけた。前で藩さんが何やら言っているようだが、エンジンの音で良く聞こえない。
 どうやら自分の腰につかまれと言うことらしい。私が躊躇していると、早くしろと怒鳴る。下は砂利道の上に凸凹で、後ろで私が勝手にふらふらしていると、バランスが上手く取れず運転しづらいのだろう。
前で運転しているのはガッシリした体躯の藩さんで、可愛い小姐ではない。どうも気が進まないが…命には代えられないだろう。それにしても、何で中年男の腰というか腹というか…抱きつかなければならないのかと、ちょっと情けなくなった。
 この日はトータルで3時間くらい、生まれて間もない子猿の様に、三十過ぎの中年男が藩さんの背中にしがみついていた。

先ずは、西に走って新港山の麓を案内して貰った。ここ三民里(サンミンリ)に数群いるという。
 次は、忠仁里(ツォンレンリ)を走り抜けて一気に和平里(ホーピンリ)の和平まで南下し、さらにそこから西に山に向かって十五分ほど走ると、小高い丘の上に出る。 そこが信義里(シンイーリ)だが、和平里と直ぐ南の信義里(シンイーリ)には、十数群はいるであろうと、藩さんはちょっと得意げに話した。
実際に行ってみると、丘の上からは、海岸山脈の東側に、新港山から南に延びる尾根が一望できた。東側斜面は、亜熱帯特有の深緑の自然林で、所々に竹藪も見られる。360度ぐるっと見渡すと、太平洋の海と山の緑が気持ちよく広がっている。思わす深呼吸したくなる。
 前面の斜面の中段を指差しながら、藩さんが説明してくれた。
 「成田さん!あの竹藪の所まで行くと、下はサルの遊び場になっています。ここのサルは、あそこの場所がとても好きなんだ。」
 「そうですか、良く来るんですか?」
 「毎日のように来ますよ。山の方から、バッサ、バッサと…」
ちょうどその時だった。
 「藩さん! ち、ちょっと待ってください! あれ!あれ、サルですよ!」
そう言いながら、私はサブザックの中からカメラを取りだした。
偶然にも、尾根からさっき藩さんが言っていた竹藪に向かって、数頭のサルが木の枝を大きく揺すりながら、降りて来ているではないか。あまりにも遠くて、サルの姿は豆粒のようだが、間違いなくタイワンザルであった。 サル達が竹林の近くまで降りて来たあと、木の揺れは消え、風に穏やかに撓(しな)う樹冠があちこちに見られるだけとなって、斜面全体がひっそりともとの静けさに戻った。
竹藪の下で戯れるサル達の姿を想像しながら、またオートバイに跨(またが)った。 成功を出てから、かなり長時間オートバイの後ろに乗っていたので、お尻が痛くなってきた。発情期のメスザルのように、赤くなっているかも知れない…。

山道を走りながら、藩さんは私を東河まで送りましょうと言ってくれた。オートバイは暫く山道を下ってから海岸道路を右折し、左手に美しいコバルトブルーの海を見ながら南下した。
 都歴(トリー)、小馬(シャオマー) を通り、馬武溪(マーウーシー)の大橋を渡ると、東河である。山の登り口でオートバイから降りた。
 「また会いましょう!」
大声でそう言うと、藩さんは土煙を立てて帰って行った。

私は、サブザックだけの身軽な格好で、皆の待つ山の中へと向かった もう道もだいたい分かっているし、サルを確認したという嬉しい情報も持っている。足取りは軽かった。

藩さんは、その後の調査においても、惜しみない協力をしてくれた。事情があって、ある時期から藩さんにはお目にかかれなくなってしまったが、彼と奥さんには、本当に心から感謝している。
 
藩さんの情報がかなり正確で信用に値するものであることも分かり、アンケートの内容はその後藩さんの情報を中心に整理され、さらに私たちの調査結果も加味されて、台東縣の長濱郷から都蘭山に至る海岸山脈東斜面に生息する野生タイワンザルの群れの分布がかなりはっきりした。
結果は次の通りである。
 
 長濱郷に少なくとも1群。成功鎮の新港山と博愛里にそれぞれ少なくとも3群。三仙里に4群。三民里に5群。和平里と信義里の間に13群。信義里の登仙橋付近に少なくとも2群。東河郷の泰源の6群。北源に少なくとも2群。都蘭山に少なくとも2群。
 合計41群が生息していることになる。このうち、和平里と信義里の13群は、泰源の6群と重複している可能性があるようだ。
また、群れのサイズについては、10から20頭くらいと考えられる。
さらに、海岸山脈の花蓮縣下に4カ所の生息地が確認されているので、重複している可能性を差し引いても、海岸山脈一帯には少なくとも39群が生息していることになる。
海岸山脈の一帯は、山麓を中心に広く開墾が進んでいるため、サルが利用できると思われる範囲を仮に標高200m以上とすると、その面積はおよそ400k㎡となる。したがって、群れの密度は、0.1群/k㎡、1群当た
りの平均行動面積は10k㎡となり、これは
暖温帯広葉樹林に生息する日本ザルの群れの密度に匹敵するものである。
 一方、タイワンザルに比較的近い環境に生息していると思われる屋久島のヤクザルの群れ密度1.0/k㎡に比べるとかなり低い数字になる。
この原因は、やはり人による狩猟圧と開墾であろう。現に、狩猟圧のほとんど無い知本温泉の群れでは、45頭からなる1群がおよそ2k㎡を遊動域として生活しているのである。
 それにしても、タイワンザルにはまだまだ分からないことが沢山残っている。

海岸山脈のベースキャンプに戻ったのは、もう日もとっぷり暮れて、皆で食事をしながらパラチオン(米酒)を飲んでいる最中だった。
 私も早速残り飯をかき込み、彼等の話に加わった。あまり盛り上がっていない様子を見ると、私のいない間の成果はほとんど無かったようだ。私は、藩さんと和平の山麓でサルを確認した話をした。
 「とにかく、ここは山が深すぎて、何も見えない。開けた場所もないし、ジメジメしてまるで井戸の中のようだ。」
 皆口々に、そんなようなことを呟いている。
キノコ博士のFさんも、ほとんどキノコの採集が出来なかったようで、口数が少なくなっている。
たき火を囲んで色々と相談した結果、明日朝この山を下りることになった。

私たちは、海岸山脈の東河山中では、結局サルを見ることが出来なかった。
台東に戻って直ぐに、調査隊を解散した。私たちはもう学生ではなく、仕事を持っている者、予備校でアルバイトをしている者、ニホンザルの調査の予定が入っている者などがいたので、来る時の予定は合わせることが出来ても、帰りの予定はまちまちであった。
キノコ博士は、予想を遙かに下回った収穫の穴埋めをするために、阿里山に寄ってから台湾大学の菌類研究室をもう一度訪ねると言って、次の日の朝高雄に向けてバスで出発した。
MさんとTは、仕事の関係で一足先に日本へ帰るということで、やはり南回りで台北に向かった。
 3人を送り出した後、アンケートの内容と聞き込み調査を再検討して、私とMは墾丁公園(コンティンコンエン)に行くことにした。

次の日の昼過ぎ、私たちが乗ったバスは左に海の景色を見ながら南下して、途中大武で休憩を取り、寿峠を超えて日の暮れかかる頃楓港(フォンカン) に着いた。そこでバスを乗り換えて、恒春(ヘンツン)まで行った。
 恒春に着いた時には、もう墾丁公園行きの最終バスはなく、恒春の安宿に泊まることになった。
 せっかくなので、宿屋の人に聞いて、サルの聞き込み調査を一件だけ行った。

 そして翌朝、墾丁公園に向かった。

[2011/11/12 00:06] | タイワンザル
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第三次都蘭(1969年3月、昭和四十四年三月)

知本温泉で猿を観察した日、私とY君(メガネ)は直ぐに台東に引き返して、第2の候補地である都蘭に行く準備に慌ただしかった。
 花蓮から台東に連なる海岸山脈(俗に都蘭山脈とか台東山脈と呼ばれる)は、台湾の屋根である中央山脈に比べるとかなり低い山脈(最高峰は新港山の1682m)ではあるが、
最近になって、藍寶石(らんぽうせき)という装飾用の石の原石が数多く発見されてからは、台湾の中でも最も注目されている山脈の一つになった。そしてこの海岸山脈の最も南に位置する都蘭山(1190m)の海側に位置する村が都蘭である。
 都蘭付近に猿が出るという噂話はあちこちで耳にはしていたが、確実な情報が無く行き渋っていた。ある日、松金旅社の近くで歯医者を営む張先生から情報を頂いた。先生の患者さんの一人「楊(ヤン)」さんは、都蘭の近くの那界(ナーチィェ) (郡界(チュンチェ))村の農夫で、山の畑や畑への行き帰りによく猿を見るという。
 張先生の話では、楊さんの山の畑は家から3時間も歩いた山奥にあって、畑に行き来する途中の断崖や山の斜面で、毎日のように猿を見るというのである。しかも、その付近の猿については猟師達にも知られてないらしく、全く猟師がやって来ない場所だという。もしその二つの事がほんとうなら、私たちにとっては、絶好の場所である。
 
次の日の昼過ぎ、私とメガネは張先生のお兄さんと一緒に、都蘭の少し手前の那界でバスを降りた。
張先生は、自慢の250ccのメグロのオートバイでバスを追いかけてきた。張先生は小柄でもう四十過ぎだが、サングラスをかけて大型バイクにのっている姿は何とも格好良く見えた。オートバイの後ろには竹カゴが取り付けられていて、その中にはポインター犬が黙って座っていた。

 楊さんの家の裏で、朝夕になるとキジが良く鳴いていると聞き、ハンティングの好きな張さんとお兄さんは、仕事休みを利用してキジを撃ちに来たのである。
 数年前までは、台東郊外の草むらにはどこでもキジが見られたそうだが、最近ではめっきり減ってしまったという。そこで、今回のようにキジのいる確実な情報があると、二人は待ちかねたように撃ちに出かけて来るのだった。
そして、今回はキジ撃ちのついでに、私たちを楊さんに紹介してくれることになっていた。張先生も楊さんの家を訪ねるのは初めてで、バス停からは歩きながら途中色々な人に道を尋ね、一時間かけてやっと楊さんの家にたどり着いた。雨が少し降り出してきた。
 
楊さんは、山の畑に出かけていて留守だった。道案内がいなくてはどうにもならないので、私たちは何時戻るか分からない楊さんの帰りを待った。
夕暮れ時になって雨は止んだが、楊さんは帰ってこない。張兄弟は、楊さんの娘さんに案内して貰い、キジを撃ちに行くという。私とメガネは何もすることがないので、キジ撃ちにお伴することになった。
 とは言っても、ハンターの側にくっついていては邪魔になるので、少し小高いところから張兄弟のキジ撃ちを拝見した。
ポインターは、臭いを嗅ぎながら草むらの中をしきりに歩き回っていた。そしてポインターの後を追うようにして、張兄弟が歩く姿が見えてた。
しばらくすると、急に犬がそわそわしだして、尾をぴんと立ててしきりにポイントし出した。どうやら、直ぐ側に獲物がいるらしい。張先生の腕前を拝見できるぞ、と思った瞬間、草むらから鳥が飛び出した。
 張先生は散弾銃をとっさに構えたが…どういう訳か、撃たなかった。飛び出した鳥は、キジではなくウズラだったのである。ウズラも結構美味しいのに…。東京郊外の八王子近辺には「鳥やま」と呼ばれる鶏や野鳥などを炭火で焼いて食べさせるお店が多くあって、一度だけ行ったことがある。野鳥と言っても、スズメやウズラなのだが、結構美味しいかったのを覚えている。台湾のウズラは、不味いのだろうか…?
 その日、ポインターが追い出した鳥はほとんどがウズラで、結局キジは一匹も追い出さなかった。唯一、獲物として追い出した一匹のヤマドリは、今私たちの食卓に調理されて並べられている。
楊さんはまだ帰ってこなかったが、楊さんの奥さんが準備した夕食をご馳走になった。 ヤマドリの他にも、青菜の炒め物やアヒルの肉料理が出た。 この当時の台湾では、肉類で一番高いのがニワトリ、そして豚肉、最後が牛肉であった。日本では全く逆の順番だったと思う。ニワトリは高価なので、その代用としてアヒルを食べる家庭が多かった。卵にしてもほとんどがアヒルの卵で、蛋花湯(卵スープ)の中に入っているのはほとんどが鴨蛋(ヤータン)と言って、アヒルの卵である。特に小さな食堂などのメニューに書いてある「蛋」は、ほとんどがアヒルの卵を使っていると思って間違いなかった。
 息子さんが金門(きんもん)島から送ってきたという金門高粱(こーりゃん) 酒を飲んで、その晩は楊さんの家に泊まった。どうやら、息子さんは兵役で金門島に配属されているらしい。
 アルコール度六〇度もある高粱酒を飲んだせいで、その夜はぐっすり寝てしまった。
 
 翌朝、まだ楊さんは帰ってこなかった。このまま楊さんを待つ訳にはいかなかったので、ちょうどその日学校が休みだった中学生の娘さんに、山の畑まで案内を頼んだ。
張兄弟は、朝早めに台東に帰って行った。

私とメガネ、そして楊さんの娘さんの三人で出発した。
 途中、田んぼのあぜ道を歩いたり、よその家の庭を通り透けたりしながら、一時間半近く歩いてやっと村はずれの山の登り口まで来た。
小雨がしとしとと降っていた。
 那界の村自体が小高いところにあったので、山の登り口まではそれほどの登りはなかった。下を見ると、ずっと下の方にバス道路と小雨にかすむ太平洋が見えた。
 登り口から十五分も登っていくと、辺りは薄暗く鬱蒼とした亜熱帯林の林に変わった。 そこで、ばったり楊さんに出会った。 
 楊さんは、天秤棒の両側に山の畑で収穫した白菜を、棒が大きくしなるほど下げていた。細い身体と薄い眉から、典型的な台湾人であることが分かった。
娘が、楊さんに私たちがここに来た経緯を話し終わると、楊さんはにこにこして話し出した。
 「やあ、日本人か。私たちは日本人が懐かしいナンダ。你(あなた)達は、こんな所までよく来たナンダ。楊さんはとても嬉しいナンダ。さあ、私の小屋に行くンダ。」
 そう言いながら、楊さんは天秤棒を娘に渡し、先に家に帰るように指示した。娘はその白菜の下がった重たい天秤棒を担ぐと、よろよろしながらもと来た道を戻っていった。

私とメガネは、楊さんの後ろを歩いた。楊さんは時々足を止めては、忘れかけた日本語を思い出すように説明してくれた。
 「この向かいの所に猿は出るンダ。私らが山から帰る時は、よく見るナンダ。小さい猿は、あの岩の穴の中で遊ぶンダ。」
楊さんは、谷を挟んだ反対側の斜面を指差した。
 三十分も歩くと、沢に出た。
 沢づたいに、岩の上を飛んだり、よじ登ったりしながら進んだ。どうやら本道とは違う道のようだ。
 「楊さんの畑の小屋は、こんな方にあるんですか?」
 ちょっと不安になったので聞いてみた。
 「いや、私の小屋はここからまた二時間くらい歩くンダ。今日は雨も降ってるし、你(ニー)達も疲れているだろうから、キクラゲ小屋に行こうと思ってるナンダ。」
 「キクラゲ小屋?」
 どうやら今日はキクラゲと一緒のようだ。 
 岩は雨に濡れて、滑って歩きにくかった。楊さんは時々石を拾っては、私たちに見せてくれた。
 「この石の中に白い筋があるダロ。これは少ししか無いンダ。もっと大きなやつだと、高く売れるンダ。みんな、こんな石を取りにわざわざ遠くからこの都蘭までやって来るナンダ。私ももっと大きいのを持ったいるナンダ。」
私たちも、しばらくは楊さんに教わった石と同じものを見つけながら歩いた。

沢の石には、赤や緑、茶色や黄色と様々な色の石が沢山あり、水晶の小さな結晶が着いている石もあった。そう言えば、知本の山奥でも水晶がびっしりと付いた岩に挟まれた道があった。時々、それらしき石を拾って楊さんに見せたが、みな何の変哲もない石だった。

キクラゲ小屋は、温室のようにできていて、周囲は薄青味がかったビニールで覆われていた。小屋の中は、高さ120cm位の古びた原木が所狭しと立てかけられていたが、今はもう栽培していないらしく、かび臭かった。 楊さんは、小屋の一カ所のビニールを破って中に入り、半分腐りかけた原木を外に放り出して、休む場所を作った。雨に濡れずに中で食事を作れるのがありがたかった。
ただし、この小屋にはムチサソリ(サソリモドキ)が多くて気になった。ムチサソリはサソリと違って猛毒の針はないが、尾の付け根から噴射するのは強烈な臭いの高濃度の酢酸で、皮膚に炎症を起こしたり、目に入れば角膜炎を起こす。

 キクラゲ小屋の向かいの斜面にも猿が出るというので、さっそく双眼鏡を出して観察を始めることにした。今日は雨なので、先ず猿は出てこないとは思ったが、それでも二時間近く頑張ってみた。
 
 その後、また楊さんに山の中を少し案内して貰った。
 知本辺りの山と違って、山の中に畑が目立って多い。芋、カボチャなど猿の好きそうな野菜類が植えられていた。バナナ畑は手入れもされず、ネズミに荒らされてメチャメチャになっていた。バナナは最近値段も安く、こんな山奥で作っても手間賃にもならないらしい。
谷はかなり深く、断崖が多い。猿の好みそうな場所である。しかし、猿の出そうな場所はあまりにも険しすぎて、全く人は近づけない。こういう場所は、遠くから観察することはできても、本格的な調査には向かない。

夕方近く、楊さんは家に帰っていった。
 その後の二日間、私とメガネの二人だけで、キクラゲ小屋での観察を続けることになった。キクラゲ小屋での生活は、ムチサソリとかび臭さを除けば、とても快適であり、充分山を堪能できた。しかし、タイワンザルの調査ということで言えば、成果はまったくゼロに等しかった。
 
結局、今回の調査でタイワンザルを見ることはできなかった。都蘭の山には確実に猿がいるが、山があまりにも険しすぎる。
猿が確実にいると分かったのは、那界の村のある農家の前を通った時に、三歳くらいのタイワンザルを見たからである。その農家の主人が、この都蘭の山でワナを使って生け捕りにした猿だそうだ。
その猿の尾は、ニホンザルの尾のように短く切断されていて、水をあまり与えないために育ちが悪く、年齢よりかなり小さく見えた。
 古くから、馬屋に猿を一緒においておくと、馬が病気にかからないと言われるが、私の見た猿は豚小屋の柱に鎖で繋がれていた。
 タイワンザルは、豚も病気から守るのであろう……。

 予備調査も含めて、延べ120日に渡って行われたタイワンザル調査は、これで終わった訳ではない。
 ニホンザルの研究成果から比べれば、これまでのタイワンザル調査で分かったことは、ほとんど皆無に等しい。しかし、ニホンザルの調査の始まりがそうであったように、タイワンザル調査もこれらの調査を足がかりとして徐々に深まっていき、タイワンザルの生態も少しずつ解明されていくに違いない。
 私たちにとっては、これからが始まりであり、今後の調査によって、タイワンザルがその真の姿を私たちの前に現すのも時間の問題であると信ずる。
十五年という長い年月を費やし、そして見事に実ったニホンザル研究の成果は、このタイワンザル研究においても大いに役立ち、解明までの時間を短縮してくれよう。

だが、今のところ、私たちにとってのタイワンザルは「幻」、まさに「幻のタイワンザル」なのである。

[2011/11/11 23:59] | タイワンザル
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第三次知本(1969年3月、昭和四十四年三月)

利嘉の裏山から帰ると、私たちは縣政府を通して警察局に行った。と言うのは、私たちが利嘉の裏山に行っている間に、利嘉の巡査が温さんの家に行って、温さんの奥さんを尋問したというのである。
 「おまえの家の主人は、日本人とどこに何をしに行ったのだ?」
 いかにも温さんと私たちが、スパイ行為をしているかの様な口ぶりだったそうだ。
 
 私たちはともかくとして、温さんや家族に迷惑がかかってはいけないと思い、警察局から直接利嘉の派出所に連絡を取って、そのような疑いはないことと、今後一切そのような尋問は不要であることを了解させた。
こういう事は当時の台湾ではよくあった。実際に私たちの滞在中にあったことだが、日本の東京大学文化人類学専攻の大学院生のSさんが、ちょうど私たちと同じ時期に利嘉でピュマ族の調査をしていた。ある日、警察官が突然やって来て「おまえはスパイだろう!」と言って、S氏を無理矢理派出所に連れて行き、あること無いこと尋問したという。もちろん疑いは晴れて事なきを得たのだが…。

ある日、縣政府に時間つぶしに行っていた時、地方新聞「更生報」の記者が私たちを取材しに来たことがあった。
「何はともあれ、動物の保護区を早く作って欲しいですね」と強く言ったのだが、次の日の新聞には、私たちがどこから何をしに来たかと言うことくらいしか掲載されていなかった。
台湾では、禁猟区や禁猟期が一応決まっているが、全く守られていないし取り締まりもされてない。銃の所持についても、最近やっとうるさくなってきたとはいうものの、まだ完全とは言えない。
 戒厳令が敷かれているために、海岸線には数キロおきに兵隊が見張りをしていて、ヨットや海釣りなどのレジャーは御法度である。 そんなこともあってか、台東ではハンティングが流行っている。ほとんど誰でも猟銃を持っていて、どんどん野鳥や大型動物を撃ち殺している。
 生活のかかっている猟師は、動物を取り尽くしたら自分達の生活もおしまいだから、そうならないためにも増えた分だけを獲るというように、上手く自然と付き合っているが、趣味や遊びでやっているハンターはそうはいかない。撃ち殺す動物がいなくなれば、趣味を変えればいいのである。
このままでは、数年の内に大型哺乳類が台湾から消えてしまうだろう。タイワンザル、キョン、タイワンカモシカ、水鹿(すいろく)など、この島には台湾の特産種が非常に多く生息している。すでに、ウンピョウやカワウソなどは絶滅したと言われており、昔はどこにでも転がっていたと言われるほど多かったセンザンコウ(穿山甲)も最近ではほとんど見られない。
もう少し自然保護に力を入れると同時に、台湾の人の自然に対する考え方も変えていかなければならないだろう。

利嘉の裏山から帰った私たちには、行く当てがなかった訳ではない。
何度も行ったことのある知本温泉である。 知本温泉といっても、今度は山登りなどする必要はなく、タイワンザルが知本温泉の旅館の直ぐ裏の斜面に出てくるというのだ。 この事を教えてくれたのは、ちょっと小太りではあるが、美人で気さくな松金旅社の女将さんだった。
私たちが常駐宿にしていた松金旅社は、知本温泉の大きな旅館の一つ紅葉荘も同時に経営していたのである。
今回、松金旅社に着いた時に、知本温泉の旅館の裏に猿が出るという話を女将さんから聞いていたのだが、温さんとの約束が既に決まっていたし、あまりにもできすぎた話だったので、後回しになっていた。
しかし、女将さんから話を詳しく聞くうちに、かなり期待ができそうに思えてきた。

知本温泉は私にとって、とても因縁深いところである。一昨年は蝶を採りに行ったし、去年は猿の調査で三回入山した。例のリュウキュウアサギマダラの蛹を採りに出かけて、身ぐるみはがされてしまったのも、この知本温泉であった。

数日後、私とY君は、紅葉荘に荷を下ろした。
 当時の知本温泉のバス停は、知本溪を渡る橋の手前にあって、温泉旅館に行くには一〇〇メートルほどの橋を渡らなければならない。橋を渡るとすぐに三軒の温泉旅館とホテルが山側に並んでいた。紅葉荘はその真ん中で、少し急な坂を上がったところにあった。
一昨年、縣長の招待でこの紅葉荘に泊まったことがある。その時は、この坂をおんぼろシボレーで登り切れずに、皆で降りて車を押したことがあった。
その当時は、全てが日本時代そのままの建物で、中は薄暗く、あまり良い印象を受けななかったが、今では、三階建ての大きな旅館に変貌していた。
しかし、従業員の宿舎を挟んで、日本時代の建物も一部残してあった。聞くところによると、残してある部屋というのは、日本統治時代に天皇がお泊まりになったというのだ。しかし、その時代に台湾に天皇が来られたという話を聞いたことがない。この件は後になって、天皇ではなく、皇族の一人であると言うことが判明した。

松金旅社の女将が全て段取りをしてくれていたらしく、私たちが到着すると、松金旅社のご主人である黄老板(ラオパン)が出迎えて下さった。 一番安い部屋をお願いしてあったが、その一番安い部屋というのが、皇族が泊まったという日本時代のその部屋であった。

黄老板は、紅葉荘の雇い人でこの付近に出てくる猿についてとても詳しいという、川口さんを紹介してくれた。
川口さんは、旅館の裏手で他の作業員数名と整地作業をしていた。
「おい!川口! 日本人のお客さんが猿を見たいそうだ。面倒を見てやってくれんか?」 黄老板が大声で声をかけると、作業員の中でひときわ背の高い男がこちらを振り向いた。 「猿なら今日の朝も出ましたよ!もういないダロ。明日また出るダロ。」
川口さんはそう言って、また作業を続けた。 彼の風貌や目つき、そして肌の色や喋り方で川口さんも高砂族だと分かった。さらに、ピュマ族が多い知本ではあるが、彼は間違いなくアミ族だと思った。川口という名前は、日本時代に付けられた名前なのだろう。

川口さんは作業が一段落すると、私たちの所にやってきた。背丈は190cmほど、ちょっと優しげなキリリとした目は、まさしく高砂族の中のアミ族の特徴だ。
川口さんは挨拶も抜きで話し出した。
「猿は毎日来ますよ。この少し上の斜面にサンコマ(ウラジロエノキ)の木があるンダ。いつも、朝と夕方にはその木まで来て遊ぶんダ。今日の朝は一八匹見ました。」
「昼間はどこに行くんですか?」
 「分からんネー。ヤマバトを撃ちに来た猟師に聞いたんダ。そしたら、あんた、この裏のズーッと奥に行っていると言うんダ。」
「そこまではどうやって行くんですか?」
「そりゃ無理だろう!猿は山の中を通っていくんダ。私ら人間は、ぐるーっと遠回りしなけりゃいけないんダ。まる一日はかかるダロ。」
私たちは昼間山に入って猿を捜すのを諦めて、朝と夕方に猿が旅館の裏斜面に現れるのを待つことにした。
 
 夕方三時半頃から、カメラを膝の上に置き、旅館の庭の石に腰掛けて、猿が出てくるのをただじっと待った。時々双眼鏡で、斜面を見ていた。
旅館の直ぐ下には道路を挟んで知本溪が流れていて、河原には高砂族の仮小屋がいくつも並んでいる。彼等は、湯治に来ているのだ。河原を掘り起こして作られた露天風呂は、リュウマチ、神経痛等によく効くそうである。 夕方ともなると、湯治の高砂族で、河原はまるで夏の湘南海岸のように混雑する。

暫くすると、私の周りには旅館の従業員が四、五名集まって来て、私たちと同じように一生懸命山の斜面を見ている。
 「猿はまだ出ないか?」
その中の一人のおじさんが聞いてきた。
「ええ…。」
 双眼鏡で山の斜面を見ながら答えた。
さっきまで一生懸命私たちと同じように山の斜面を見ていた人たちは、今度は私たちの双眼鏡ばかり見ている。
「ちょっとそれを貸してくれないか?」
 そのおじさんが、双眼鏡を指差して言った。 双眼鏡を貸してあげると、山の斜面を見ながらそのおじさんは、「やはり、日本製はいいんダ!日本製はいいんダ。」
しきりにそう繰り返し言っていた。
しばらくの間は、私たちの周りにいる人たちに双眼鏡が引っ張り回されていた。
 そして、双眼鏡を手にした者は皆、日本製はいいと褒めている。今までに日本製の双眼鏡など見たこともないはずなのだが…。きっと思い込みなのだろう。
彼等はしばらくは山の斜面を見ていたのだが、猿が出てくる様子もないので飽きたのだろう、後ろを振り向いて、露天風呂をしきりに眺めだした。
 そして、時々中国語で何か言いながら、ゲラゲラ笑っている。さらに、喧嘩しながら双眼鏡を奪い合っている。どこの国の男達も、やることは同じものだ。
 結局、山の斜面が真っ黒になるまで、猿は現れなかった。

夕食を終えてから寝るまで、ずっと川口さんと語り続けた。川口さんと私たちの共通の話題はもちろん猿のことである。
 日本で私たちが猿の研究をしていること。なぜタイワンザルの研究にわざわざ台湾まで来たのか?そして、台湾に来てからの調査の過程など。
話しているうちに、温さんの話になった。驚いたことに、川口さんは温さんの親戚筋に当たるというのだ。
 「温徳志でしょう?梨嘉村の?私の家内が利嘉出身で、温徳志とは親戚になります。」
「あの男は、猿撃ちの名人なんダ。温さんと山に入ったなら、猿は見られたでしょう?」 「ええ、でも…まあ…」
私は、温さんと山に入っても、私たちの研究は全く進まないのだと言うことを説明した。そして、猟師が行かないような場所にいるタイワンザルを探しているのだと言うことを話した。
 「そんなら、この温泉の群れがいいんダ。ここの群れはとても頭がいいんダ。猟師がここに来て、猿を撃って帰ったことはないんダ。それに、旅館のお客さんは、猿が出てくると喜ぶものだから、旅館の旦那さんは私に言うんダ。猿を撃ちに来た猟師がいたら、追っ払ってしまえとね…。」
川口さんの話を聞いていると、この知本温泉の裏斜面に出てくる猿の群れは、餌付けの可能性もあると思えた。でも、私は自分の目でその猿の群れを見ないうちは、決して何も信じないことにしていた。

次の日の朝、五時からいつもの石の上に腰掛けて、猿の現れるのを待っていた。
七時。まだ猿は現れない。川口さんは、毎日のように猿が出てくると言っていたから、かなりの期待を持って待っていたのだが…。私はだんだん落ち着きを無くし、山の方に少し登っていったり、庭に戻って行ったり来たりしていた。
「ご飯できた!一緒に食うか?」
炊事係の高砂族の青年が、私たちを呼びに来た。
食事が済んでから、川口さんに付近の山を案内して貰った。
旅館の前の緩やかな登り道をしばらく行き、途中から脇道に入りまたどんどん登って行った。すると、正面に滝があり、その右側一面は鮮やかなクリーム色の大きな断崖になっている。山の下の方には茅葺きの家が点在していて、どこの家の周りにもミカン畑があり、黄色のミカンがたわわに実っていた。
この滝の付近にも猿の群れが来るという。 「この断崖は大きくて高いんダ。だから、鉄砲の弾がとどかないから、猿たちは安心して遊ぶんダ。今日はどうやら来ていないらしい。戻って、戻って旅館の裏の斜面に行ってみましょう!」
「私はその前に、温泉のホースを調べて、少し修理しなければなりません。」
旅館の裏の斜面には、温泉にお湯を供給するための太いホースがあちこちに見えた。川口さんは、ホースの口に詰まった枯れ葉を取り除いたり、流れを良くするためにホースを移動させたりした。
そんな作業をしながら少しずつ斜面を下っていくと、かなり大きなサンコマの木の下まで来た。サンコマの木の根本を見ると、根に絡んだ岩の割れ目を通って、白いホースが下の方に延びていた。
「猿はこのホースをよく抜いてしまうんダ。猿はほんとに悪戯で困ります。」
そう言いながらホースを直した。
サンコマの木はかなり茂っていて、谷を薄暗くしていた。もし猿の写真を撮るなら、ここからでは暗くてさらに木の枝が邪魔になって、良い写真は撮れないだろう。猿が出た時はやはり、旅館の庭から双眼鏡を使って観察するしかない様である。
サンコマの木の下に行って、猿の糞を調べたが、見つからなかった。どうやら、猿はこのサンコマの木に来ても、あまり長い間いることはなく、群れ自体もかなり小さいのかも知れない。

猿の出てこない昼間は、かなり時間に余裕がある。そんな時には、手紙を書いたり、日記をつけたり…それも飽きてくると、外に出て蝶を採集したり、旅館の庭に置いてある卓球台で遊んだりして時を過ごす。
日本の温泉旅館なら、色々な遊び道具やジュークボックスなどが常備されていて、暇を持て余すことなど無いのだが、台湾ではかなり有名な温泉旅館でも、卓球台があるのはまだいい方で、ほとんど娯楽設備はない。
そんな状況だから、朝夕に旅館の庭の石に腰掛けて猿を待つ時間帯が待ち遠しくさえ思えた。

 夕方になって、私たちはいつもの所にいつもの格好で座って、ひたすら猿を待った。
 時々旅館の客室の窓から顔を出して、不思議そうに私たちを見ている泊まり客もいた。 知本の美しい風景と温泉をゆっくり楽しみに来たお客にとっては、ただひたすら裏の斜面を見つめている私たちが奇妙に思えたに違いない。
旅館のお客の中には、わざわざ下まで降りてきて、何が見えるのだろうとばかり、私たちと同じように斜面を必死に見る人もいたし、なかには、猿を見たいなら台北の動物園に行けばいいと、大変ありがたいご意見を下さった方もあった。そんな時にはただただ、にっこりと笑顔で返すしかなかった。
今日もまた猿が現れることなく一日が終わり、紅葉荘の窓には明かりがつき始めた。

 紅葉荘は、知本温泉にある三つの旅館のうちでも一番高いところにある。夜になると辺りは真っ暗になり何も見えなくなってしまうが、夕暮れに紅葉荘の庭から見た風景には、何とも言えぬ情緒が感じられる。
 心地よい音を立てて流れる知本溪。知本溪にかけられた真っ赤な吊り橋。薄汚れた衣服をまとい、赤銅色の肌を夕日に染めて吊り橋を渡る高砂の女。遠くには、知本溪に削られてクリーム色の岩肌を見せる山が続いている。

 突然、辺りの静寂を破るように中国語のアナウンスが聞こえた。
 「謝謝客位(シィェシィェコーウェィ)、 謝謝客位(シィェシィェコーウェィ)、這裏是馬蘭文化村(チョーリースーマランウェンフアツン)、………。」
紅葉荘のすぐしたにある、茅葺きの丸い小屋の大きなスピーカーから聞こえてきた。
何度も何度も繰り返し同じ事を言っているようだったが、内容はさっぱり分からない。
 直ぐ側にいた帳場の男に聞いてみた。
 「ああ、あれはお客さんを呼んでいるんだ。下に小屋が見えるだろ?あの小屋で、毎晩阿美族(アーメイツー)(アミ族)の小姐(シャォチェ)(娘) が踊りを踊ったり歌を歌うんだ。あんたらも、見に行くといいよ。」 そう説明してくれた。
 前回来た時にはなかったから、この阿美族文化村は、最近できたものらしい。
台湾の高砂族の中には、古くから伝わる踊りや歌を観光客に見せたり聴かせたりする施設があちこちにあるとは聞いていたが、そう言う場所に行く機会も暇もお金も無かったから、どんな踊りや歌が披露されているかなど全く知らなかった。
もともと台湾の高砂族(台湾原住民)には興味があったし、夜を退屈に過ごすのももったいないと思い、お金はかかるがちょっとだけ覗いてみようということになった。
帳場の男は、私たちの顔色を窺って、
 「切符はここで売っているよ。二枚かい?」 まったく商売上手である。

自由時間に観光。こんな事は今までになかったので、私もメガネも少しうきうきした。
 とにかく、今回が三度目の台湾で、延べ120日も台湾にいたことになるが、無料で入れる公園などは行ったものの、かの有名な故宮博物院すら行ったことがなかった。

私とメガネは切符を握りしめて、旅館の坂を一気に下り、「馬蘭文化村」と白文字で書かれた入り口に立った。
馬蘭と言えば、台東の近くにあるアミ族の村である。台東で昨年知り合った「虎(とら)さん」(アミ名はバカラ)も馬蘭に住んでいるアミ族であった。

 中にはいると、正面にジャボクで作られたトーテムポールが立っていた。何となく、遊園地のインディアン部落にでも来たような雰囲気である。 
 辺りを見回していると、民族衣装を着た男の人が来て、民芸品を陳列してある小屋に案内してくれた。
「やあー、日本人ですか…。懐かしいですなー。この文化村にも、日本の観光客の方が結構いらっしゃいましたよ。で、お国はどちらですか?」
 「東京です。」
 「はあ、東京ですか。いいですなあー。日本人はいい。私の親戚も今神戸に居るんですが、是非一度日本に行ってみたいですねー。」 「そうですか…」
 「で、台湾には何しに来られたんですか? ごく簡単に、猿の調査のことを話した。
 「はあ、猿の研究ですか?大変ですなー、わざわざ台湾まで。」
 彼の日本語があまりにも流暢なので、台湾にいることを忘れるところだった。彼は肉付きの良い小柄な人だったが、その顔にはどことなく剽軽なところがあり、話していてとても楽しい人だった。
「これは昔アミが使っていた食器です。今じゃあんな物使いませんがね。これが、民族衣装です。これ全部手で織ってあります、はい。」と、とにかく早口でしゃべりまくる。こちらから質問する空きもない。
 「ところで、知本には後何日くらいいらっしゃるんですか?」
「明日かあさってには帰ろうと思ってます。」
「そうですか、残念ですなー。もし時間があれば、是非また寄って下さい。」 
私たちは案内のままに、彼に付いて歩いていた。
 「あっ、そろそろ踊りが始まりますから、中に入りましょう!」

 小屋の中は、思ったより綺麗にできていた。真ん中にコンクリートの丸い踊り場があり、それを丸く取り囲むように座席が四重に取り巻いていた。座席は一段一段少しずつ高くなっているので、全体としてすり鉢状の舞台と客席になっていた。
ひどく雑音の混じった音楽がかかり、いよいよ踊りの始まりである。極彩色豊かで華やかな民族衣装を付け、足首に鈴を付けたアミ族の娘が十数人、音楽に合わせて踊りながら丸いステージに入ってきた。
でも、不思議なことに音楽も踊りも何となく最近もののようだ。彼らの伝統的な踊りはほとんど無く、何もかもが相当アレンジされている。
結婚式の踊りは、若いカップルが恋をして結婚するまでを、ちょっとした劇のように演じながら踊っていた。これは確か、タイヤル族の踊りに近い。三三九度のように酒を飲む場面で使われた木製の酒杯は、パイワン族のものだ。
 長い付け髪で頭を激しく回転させながらの踊りは、ヤミ族の踊りである。
竹竿が何本も持ち出された。竹を打ち付けてリズムを取りながら、その竹の間を飛ぶように踊っている“竹踊り”と称しているのは、インドネシアの踊りではなかったか?

 結局この文化村と称するところは、観光客相手の見せ物小屋のようなものだから、観客の喜びそうな踊りをどんどん取り入れていて、自分たちアミの伝統的な踊りはほとんど踊らなくなってしまっているのだろう。
歌にしても、アミ族特有の素晴らしい合唱は無く、日本の演歌や最近の台湾の流行歌ばかりであった。
 それでも、ショウの最後に観客と一緒になって手を繋いで踊る踊りは、まさしくアミ特有の踊りであったから、少しホッとした。
その日は、私たちの他に十数名の外省人の団体が来ていたのだが、彼らの踊りを見物する態度には幻滅を感じた。大声でヤジを飛ばしたり、勝手な話をしたり、中には所かまわず痰を吐き飛ばしている客もいた。

私のように高砂族に詳しければいろいろなことが分かるが、何も知らない観光客は、これがアミ族の踊りなのだと信じて帰って行くのだろう。ちょっと悲しい気がした。

ショウが終わってすぐに、なんと十数名の娘達全員が、私たち二人の周りに駆け寄ってきた。
 「Nサーン!どうしてここにいるのー?」
踊っているときには厚化粧で分からなかったが、なんと馬蘭の虎さんの娘、アンランだった。他にも何人か顔見知りの娘がいる。
 一七、八の娘達に囲まれて、気分は悪くなかったが、とにかくびっくりした。メガネは、何事が起こったのかと私の何倍も驚いたことだろう。さらに、他の観客は、娘達を全部私たち二人に取られてしまったかのように、ふてくされた表情で帰って行った。

私が初めて台東に来た今から二年前(一九六七年)のことである。
 黄順興縣長のご厚意で「アジアの鉄人」と呼ばれた楊傳廣(ようでんこう)氏の家の前で、アミ族の踊りを見学させてもらったことがあった。
楊傳廣氏は、馬蘭アミ族の出身で、一九六〇年のオリンピック・ローマ大会の十種競技で銀メダルを取った台湾の英雄であった。
学校の運動場ほどもある広い庭の隅に、当時のアミ族としては珍しい鉄筋の家が建っていて、その家の壁には五輪マークとビクトリーのVの字が貼り付けてあった。彼は当時三十三歳で、その四年後の東京オリンピックでは、五位に終わった。
 本来アミが踊るのは、収穫祭の7月中旬と、農歴の正月の二月頃だから、これは私たちのためにわざわざ縣長がお膳立てしてくれたに違いなかった。
 初めて見るアミ族の踊りに、興奮しながらシャッターを切りまくった。踊っているのは、一五、六の若い娘からかなりの年寄りまでいたが、もちろん私は若い娘達の集団にカメラを向けていた。
休憩の時に、その中でも一番笑顔の可愛らしい娘に、住所を教えて貰い写真を送ることを約束した。その娘の名は李と言った。
日本に帰ってからさっそく写真を焼き増しして、日本語の手紙をつけて李小姐に送った。
それから一ヶ月ほどして礼状が届いたのだが、その差出人の名前は「虎正(とらただし)」 となっていた。また、その手紙と一緒に虎さんの娘、アンラン小姐が中国語で書いたお礼の手紙が添えられていた。なぜ、李小姐からではなく、見ず知らずの虎と言うおじさんが礼状をよこしたのか、不思議であった。
それから一年半後に台東にやってきた時、
私は忙しい中時間を作って、わざわざ馬蘭の虎さんを訪ねた。
当時の馬蘭は、質素なアミ族の家々が建ち並び、家畜臭のする、そんな素朴な田舎の村だった。
突然訪ねて行ったのだが、虎さんは直ぐに家族に指示して簡単な酒席を準備させ、初対面の私をおおいに歓待してくれた。
米酒を酌み交わしながら、虎さんは私のために、即興で歓迎の歌をアミ語で歌ってくれた。とにかく気さくで冗談の好きな、素晴らしいアミの男だった。
「なぜ虎さんが、私に手紙を下さったのですか?」
 二人ともかなりお酒が回ってきた頃に、そう切り出した。
「実はですねー、Nさんが送ってくれた写真とお手紙が、回り回って私の所に来たんですよ。…あのー、李という娘の家族は、誰も日本語が分からんのです。」
 虎さんはなぜかバナナを私に勧めてくれたが、お酒を飲みながらバナナは食べられないので、丁重に断った。
 「そうですか、残念ですねー。Nさんがバナナを食べてくれたら、お酒の入る所が少し減って、その分私が沢山お酒を飲めるかと思ったんですがねー。ハッハッハッ!」
 とにかくいつ冗談が飛び出すか分からない。
「ところで、さっきの話の続きですが…そんな訳で、私がNさんにお礼のお手紙を書く事になった訳です。」
阿美族の習慣では、家族は客の前にやたらに出て行くことができない。薄暗い奥の部屋に続く戸口では、奥さんと娘達が私たちの話に耳をそばだてている様子だった。時々頭が見え隠れしている。

 この時から私と温さんは、生涯の友となった。その付き合いは虎さんが亡くなるまでの四〇年続いた。台湾で初めてビンロウも噛みかたを教えてくれたのも、虎さんだった。

 私は中国語の勉強をしたいと思っていたので、その後も蘭とは中国語の文通が何度か続いていた。
馬蘭文化村で踊っていたアミの娘達の中には、私が楊傳廣の庭で見た娘達が何人かいたのである。その夜は遅くまで、アミの娘達と昔話に花が咲いた。この頃のアミの娘達は、日本語教育を受けた両親を持っているものが多かったので、簡単な日本語はみな理解できた。

 夜遅く、雨が降り出した。
 梨嘉の裏山で猿が現れた前日は必ず雨だっただけに、明日はこの知本温泉の裏手斜面にも猿が出てくるような気がしてならなかった。

朝五時頃、私はいつもの石に腰掛けて猿を待った。一時間も石の上に腰掛けていると、お尻が痛くなってしまう。私は立ち上がって、旅館の前の道を行ったり来たりした。そしてまた石に腰掛けたり…。そんなことを繰り返しながら、裏手の斜面を見つめていた。
 六時五五分、旅館の庭にいたメガネが私を呼ぶ声がした。
「Nさーん!Nさーん! 猿が、猿が出ましたよー!」
 私は旅館の庭に飛んで戻った。
 庭先にはメガネと川口さんがいて、しきりに斜面を見ていた。どうやら、川口さんが見つけたらしい。
「どこ?どこにいる?」
 私は焦って聞いた。
メガネが指差した先を見ると、猿は見えないが、斜面の木が大きく揺れているのがはっきり確認できた。
木から木へダイビングでもするように、降りてきているようだ。“バサッ、バサッ”という音が聞こえるかのように、木が不自然に揺れていた。そして斜面の中程まで来て、木の揺れが止まった。
 「あれっ!猿のやつどこに行ったんだ?」 独り言のように呟くと、川口さんがサンコマの木を指差した。
 「ほれ、あそこにいますよ。」
 川口さんが、また指を差しながら教えてくれた。
時間は7時03分。発見からまだ八分しか経っていない。
サンコマの木の枝に三頭のタイワンザルが小さく見えた。思ったより遠いので、肉眼ではオスかメスかの区別もつかないし、顔もはっきりしない。
 木の一番上にいる猿が、他の二頭よりも体は大きそうだ。早速双眼鏡で見た。
 大きめの猿は、まるでこちらを窺っているかのように、真横に延びた太い枝にちょこんと座ってこちらを向いていた。
他の二頭のうちの一頭は直ぐに視界から消えてしまったが、もう一頭は大きめの猿の右下の枝に座った。
 大きめの猿が枝づたいに歩いた。長い尾はだらりと下に垂れ下がっている。今度は、木の上に行ったり下に降りたり、さらに、枝の先の方へ行ったり、何だか落ち着きの無いように思えた。時々尾を枝に絡ませるような動きを見せる。
 尾の短いニホンザルを見ている者にとって、タイワンザルの長い尾が日常どのように使われているのか、そしてどのような役に立っているのかということは、とても興味深い問題である。
樹上性の強い猿は、体の均衡を保つために長い尾を持っているという説がある。だからといって、長い尾を持つタイワンザルは樹上性が強いと断言するのはまだ早い。
寒い地方の恒温動物は、暖かい地方の近縁種よりも外部の附属器官が縮小する傾向があるというアレンの法則(後にアレンの規則に変更)によれば、タイワンザルの長い尾は体温発散器官の役目を持っているといえる。 しかし、私たちが問題としているのは、バランスがどうのこうのとか生理学的にどうなのかということではなく、生態学的・動物社会学的な尾の役割や順位制におけるところの尾の役割である。
ニホンザルでは、順位の高い猿が尾を立てて、逆に順位の低い猿は尾を下げて、まるでまたの間に隠すようにする。尾を上げるか下げるかは、順位の象徴となっている。
はたして、タイワンザルの場合にはどうなっているのか?

大きめの猿は、枝の先の方で葉をむしり取って食べていた。そして、またもとの所に戻って同じような格好で座った。もう一頭の猿は、全く動く様子もなくじっと座っていた。そして、時々大きめの猿の方を見ていた。
 大きめの猿はどうやらオスのようだ。年齢はここからでは全く見当も付かない。

三月と言えば、餌付けされていない野生ニホンザルにとっては、残り少ない山の食料を求めて苦しい生活を強いられる季節だが、タイワンザルにとっては、美味しい木の実が少ないという程度で、ニホンザルに比べるとかなり楽な生活に見える。
夏季におけるタイワンザルの食物としては、五月から八月頃に熟すタブの実、サンコマの実、ガジュマルの実が一番好まれるようで、その他にもハルモ、ウラス(どちらもピュマ語)と呼ばれるタブの実によく似た実が食べられているという。
冬期においては、タブ、サンコマ、ガジュマルの葉をよく食べるが、時としてススキの芯やカヤの芯を食べることもあるようだ。
 しかし、餌が不足してくると、山に植えられているトウモロコシ、カボチャ、野生のバナナなども食べられてしまう。
私たちがタイワンザルの研究を始めるまでは、このような猿の餌のことなども、全く分かっていなかったのである。

 7時21分。サンコマの木に猿が現れてから18分経った。見えていた二頭の猿も、木の下の方へ降りてしまい、見えなくなった。 あっという間の出来事のようであった。
 写真は二〇枚近く撮ったが、距離がかなりあるし、レンズも125mmと少し短いので、写っているかどうか心配であった。
 しかし、猟師に邪魔されることもなく、18分間ではあったが自分達だけで観察することができたことは、私たちのタイワンザル調査にとって大変画期的なことであったし、とにかく嬉しかった。
私が撮った写真は、野生タイワンザルの写真としては、世界で初めての写真となった。

そして次の日、いったん台東に戻った後、第二の候補地である都蘭に向かった。

さらに、都蘭から帰ると直ぐにまたこの知本温泉に足を運んだが、その時はついにタイワンザルを見ることができなかった。
 しかし、知本温泉が、私たちにとって重要なタイワンザルの観測場所である事には変わりなかった。

[2011/11/11 23:56] | タイワンザル
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