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台湾台東に関わって40数年、その間に経験した楽しかったこと面白かったことびっくりしたことなど、現地の状況や日本との比較なども含めて紹介したいと思います。
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 台湾の言葉と民族 (昭和四十三年)

台湾は日本語が通じる唯一の外国と言える。 言葉が通じたのでは外国に行った気がしないかもしれないし、言葉が通じない方が面白いこともあるかもしれない。しかし、いざというときに言葉が通じないというのは辛いことだ。
アメリカ人に道を尋ねられて、十年以上も学校で習ったはずの英語が聞き取れなかったり、言いたいことが口から出てこないという苛立ちは誰しも経験があるのではないだろうか。外地駐在員の奥さんがノイローゼになって自殺したというニュースを聞いたことがあるが、あれももとはと言えば言葉の問題や差別の問題がその原因であるようだ。
私の友達で、たった二ヶ月ほどの外国旅行だったにもかかわらず、言葉ノイローゼになって帰国したものがいた。
言葉が通じるために困ったとか、ノイローゼになったとか言う人は、私の知る限り(一人の日本人を除いては)いない。やはり言葉は通じるに越したことはない。

 台湾は日本語が通じる国ではあると言っても、首都台北で現地の人同士が話している日本語を耳にすることはほとんど無い。台北では中華民国の国語「北京語」が使用されていて、日本語や台湾語を話せても公の場では話さない。だが、家庭ではかなり日本語が使われているようだし、台湾人の家庭ではほとんどが台湾語である。
台湾の南部に行けば行くほど、日常そして公の場でも台湾語や日本語を使う人が多くなる。台北の公官庁ではほぼ100%北京語であるのに対して、南部の台東縣政府内では、北京語30%、残りが台湾語プラス日本語である。これには、台湾の民族と歴史の問題が深く関わっている。
台湾で使用されている言葉をまとめてみると、国語である北京語(北平語、漢語、普通話等と呼ぶこともある)、台湾語と呼ばれている閩南語(みんなんご)と客家語(きゃっかご)、高砂族と呼ばれる原住民の話す9種類の言語、そして日本語である。高砂族は当時、タイヤル・サイセット・ブヌン・ツオウ・パイワン・アミ・ヤミ・ルカイ・ピューマの九種族に別れていて、各部族は皆違った言葉を話す。そして、彼ら九種族の共通語はなんと日本語であった。

 台湾の漢民族系は、大きく台湾人と外省人に分けられるが、これは正式な分類ではなくあくまで便宜的なものである。一般に台湾人と呼ばれている人達は、約四〇〇年前頃に開拓者として大陸から台湾に渡ってきた漢民族系の人々であり、台湾総人口の八割以上を占めている。その中には福建方面からやって来た閩南人と広州方面から渡ってきた客家人がいて、家庭で話す言葉も違う。
 外省人とは、第2次世界大戦後、蒋介石の国民党政権と共に大陸から移住してきた人々を指す。中国各地からの出身者がおり、台湾の政治の実権はほとんど彼ら外省人が握っている。外省人の数は200万人ほどであり、当然日本語を知らない。
日本は、日清戦争に勝利して、下関条約により台湾を清から割譲された。そして、その後約50年に渡り日本が台湾を統治した。
台湾統治時代に日本教育を受けたのは、台湾人と高砂族であった。日本教育を受けた台湾人で日本語を喋れる人は現在(昭和四十三年)三十五歳以上であり、社会的にも中心的な地位についている。今の日本人よりよほど正しい日本語を話す台湾人も沢山いる。
高砂族とは、今からざっと数千年前にすでに台湾に住み着いていたと思われる台湾原住民族の総称で、その数およそ20万人と、台湾の人口1300万の2%弱しかいない(1967年当時)。彼らは九種族に分かれていて、それそれ固有の言語を持っているが、お互いの言葉はほとんど通じないために、今でも共通語は日本語になっている。やはり、三十五歳以上の日本教育を受けた人は、日本語が大変達者である。

台湾人同士の会話を傍で聞いていると、とても奇妙で不思議な感じがする。
 「陳さん、そのことについてはだね……。だから私が言ったでしょう…………。いや、よくあることなんだ」
 「林さん、林さん、ちょっとまってよ。ええと、…………でしょう。もしこれが……いつだったかなあ…………そうすれば…………というわけだ」(……の部分は台湾語、時に北京語が入ることもある) 日本語の方が言いまわしが楽だったり微妙な言いまわしができる時などは、どうしても日本語が自然に出てきてしまうそうだ。

台湾語の中に、外来語として定着した日本語も多い。しょっちゅう耳にしたのは何と言っても「オバサン」だ。旅館などで、若い娘が年配の仲居さんを呼ぶ時に、大声で「オバサン!」と言うのである。何か用事のある時はオバサン!と大声を出すと、すぐに誰かしらやって来た。もちろん、オジサンもそうなのだが、不思議と耳にしたことが少なかった。
ネエチャン、ウンチャン(運転手)バカヤローなどもかなり台湾語の中に浸透していた。 台湾人や高砂族が日本語を話すと言っても、日本人が話す英語をジャパニーズ・イングリッシュというのと同じで、彼らの使う日本語も「台湾日本語」とも言うべきかなり崩れた日本語であることが多い。もちろん、先にも触れたが、日本人以上の日本語の使い手もいるにはいる。
 最も日本語らしくない日本語を使っていたのは、台東縣延平郷紅葉村のブヌン族の人達であった。
 台東から中央構造線沿い(山線)に北へ二〇キロほど行くと延平郷という村があり、そこからさらに山奥へ入ると紅葉村というブヌン族の部落がある。今なら車で二〇分ほどだが、当時は道も悪く車もポンコツだったので、延平郷公所から紅葉村まで一時間ほどかかった。
ある時私たちは入山許可を取って、調査に出かけた。山岳地帯に暮らす高砂族の経済的文化的立ち後れを保護する為に、政府は官制区域を設けて一般人の入山を制限している。そのような地域に入るには、当地警察局または台北刑務所に申請して入山許可を取らねばならなかった。
調査隊のメンバーは、日本人が私を含めて四人、そして延平郷公所の職員で案内兼通訳の台湾人の廬(ろ)さん、さらに台東縣政府の役人の合計六名である。
 延平郷公所を過ぎて人家が切れた辺りに、踏切のような警察のゲートがあり、そこで許可書を見せて簡単な手続きをした。
 車は縣政府が出してくれたおんぼろ乗用車で道は砂利道でガードレールもない。谷は大きく深く切れ込んでいて、遥か下に紅葉渓が流れている。
ブヌン族は山の高砂族であり、日本統治時代までは首狩り族でもあった。紅葉村では、首を狩ったことがあるという頭目の家に一週間滞在した。その間私たちは、あちこちの民家を訪ねてブヌン族の生活や文化などを調べた。そして時間の許す限り、私は懸命に蝶を採集した。
私たちは、戦後初めて紅葉村に入った日本人と言うこともあって、どこの家でも絶大な歓迎を受けた。彼らが日本語を話すと言うことは通訳の廬さんから聞いていたので、調査もスムーズに進むものと安心していたのだが、質問をしても答えてくれないし、あちらが何か話しかけてきても何を言っているのか聞き取れない。
廬さん曰く「あなた方の日本語は通じないですよ。彼らが使っている日本語を使わなければ。今私が聞いてあげましょう!」
 その後ずっと、廬さんに通訳してもらって調査を進めた。それにしても、お互いに日本語で話をしているはずなのに、通訳がいなければ通じないとは? その通訳も、私たちの日本語を彼らの日本語にして話しているだけなのである。
 戦後二〇数年もの間、地理的にも文化的にも隔離されていたために、彼ら同士で話す日本語が次第に変化してしまった結果、日本人である私たちにも分からなくなってしまったのだ。だが、廬さんは、仕事柄ずっと彼らと接触していたために、彼らの話す変化した日本語にも対応できるようになっていたというわけである。
頭目は台湾姓を胡(フー)といった。筋肉質の躰に赤銅色の皮膚、そして彫りが深く大きく異様な輝きを見せる眼。確かに首狩りをしたのだろうなと納得がいってしまう。
この頭目には三人の娘がいた。三人とも、頭目には似ても似つかないような色白の美人であったが、揃って未婚で長女はもう四〇歳になる。廬さんはそのことについてそっと私たちに話をしてくれた。
長女が若かりし頃、村でも一番の美人だったそうで、彼女は村の駐在所の日本人巡査と恋に落ちた。巡査は花園という名前だったそうだ。花園巡査はたいそう男前で、似合いのカップルだと村でも評判になったそうだ。ところが、日本が戦争に負けて台湾から引き揚げた時、花園巡査もやむにやまれぬ事情があって日本に帰って行った。
残された長女は、花園巡査の面影を胸に秘めて、その後ずっと独身を通したのだそうだ。ところが話はそれで終わらなかった。長女には二人の妹がいたのだが、妹たちは、姉が結婚しないのに自分たちが結婚するわけにはいかないと言って、妹二人も独身を通しているというのである。
首狩り族の頭目の娘と日本人青年との恋、何とロマンチックな話であろうか。こんな台湾の山奥にも、日本時代があり、日本の面影がひっそりと残っていた。

同じ台湾日本語でも、台湾人と高砂族では少々感じが違う。彼らの話す日本語の特徴は、語尾にある。
 高砂族が使う日本語語尾の特徴は、「……ダロ」、「デショ……」、「……(ナ)ンダ」が多い。
 例えば、「私たちは日本教育ナンダ、だから日本精神ナンダ」と言う調子である。彼らは「ダロ」「デショ」「ナンダ」をあまり区別して使わない。Aさんは「ダロ」調でBさんは「デショ」調という具合に、人によって調子が決まっていることが多い。だから、さっきの言葉は人によっては「私たちは日本教育デショ、だから日本精神デショ」となったり、「私たちは日本教育ナンダ、だから日本精神ナンダ」となるわけである。
一方、台湾人の場合は「……ネ」、「……ホ」、「……ネ、ホ」、「……ナンダ」と言うのが多い。「ホ」というのは元々台湾語であり、相手の同意を求める時とか、念を押す時に使われるのであるが、日本語の最後に「ホ!」を入れる台湾人はかなり多い。 「そうネ、明日帰るネ、また台湾に遊びいらっしゃいネ、ホ!」 「ネ」調、「ネ、ホ」調は、日本語がかなりできる人が使っていることが多く、あまりうまくない人は「ナンダ」調を多く使っているようだ。
前の文をナンダ調に変えると「そうナンダ、あんたたちは明日帰るナンダ、また台湾に遊び来るといいナンダ」となり、言おうとしていることは充分通じるが、かなり聞きづらくなる。

しかし、言葉で最も大切なのは、何とかして伝えようとする気持ちと、相手に何とか分かってもらいたいという心であろう。


この文章を書いてからすでに43年が経過した。
その間に台湾にも色々な変化があり、この文章の内容はほとんど過去のものになっている。
台湾の昔を知る人にとっては懐かしいかも知れない。
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[2011/10/28 16:37] | 台湾の日本語
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