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台湾台東に関わって40数年、その間に経験した楽しかったこと面白かったことびっくりしたことなど、現地の状況や日本との比較なども含めて紹介したいと思います。
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初めての台北(1967年2月)

・基隆
「台湾に行く外国人観光客のほとんどは、飛行機を利用して、台湾の空の玄関である台北国際機場(台北市の松山にある) から台湾に入り、残りの僅か数%の人々が、海の玄関である基隆港から台湾に入る」ということが台湾(正式には中華民国)の新聞に書いてあったが、私はその数%の中の一人で、初めて台湾の土を踏んだのは、基隆港であった。
 話に聞いていたとおり、基隆は陰気で不気味な雰囲気を持つ港であった。黒ずんだ倉庫棟、灰色に塗られた軍用船の群れ、そして雨上がりの黒雲がその不気味さをいっそう強く印象づけていた。
 倉庫の上や壁には「反抗大陸」・「復興中華」・「建設台湾」等の文字が赤で大書されており、台湾が現在準戦時体制下で有ることを示していた。それらのスローガンは、駅と言わず、町中の柱や壁と言わず、タバコの外紙や酒のラベルにまで書かれていた。戦後生まれで、準戦時体制下の生活経験など勿論ない一八歳の私にとって、非常に驚かされたことだった。
 検疫・入国審査・税関の旅具検査などは簡単に済んだ。中でも、税関の検査は拍子抜けするくらい簡単で、何が入っていますかという税関吏の英語の問いに「キャンピング用品」と英語で答えると、すぐに白いチョークでキスリングの背にチェックをして終わりであった。そこへいくと、台湾人帰国者には非常に厳しく、手荷物を片端から開いては、中国語でしつこく問い質している様子が見られた。
 
 待ち時間を含めて一時間ほどの入国手続きから解放され、キスリングを背負って、生まれて初めての外国の地を歩き出した。
 外は暑く、まるで肌が焼け付くようだった。ひょっとすると雪が降っているかもしれない東京を思うと、この暑さと汗は外国にやって来たと言う満足感を十分に味わわせてくれた。
 台湾独特の臭い(八角の臭い?)も、その時の私にはかえって心地よく感じられた。

 私たちは基隆駅へ急いだ。七〇キロはあろうかというキスリングを背に、両手にはお土産の入った紙袋をさげ、滝のように流れる汗を振り落とした。
 よろよろノタノタと歩いている私には、すれ違う台湾の人達の視線が気になった。
 大きな荷物を背負って汚い格好で山登りから帰ってきた時、新宿であろうが上野駅であろうが、日本ではほとんど気にしたことはない。人とはちょっと違ったことをしているというプライドのようなものさえあった。
でも今は少し違う。私という日本人が何となく格好悪く惨めで、ちょっと自分でも可哀想だという気持ちが湧いてきた。

基隆車站(駅)の正面には大きな孫文の銅像が建っていた。孫文は台湾の国父であり、大きな駅や公園には必ずこの孫文の石像や銅像がある。そして、孫文の唱えた三民主義という言葉も、町中でよく見かけた。
「基隆は労働者や軍人が多く物騒なところだから、すぐに台北に行った方が良い」という先遣隊に参加した先輩の言葉通り、すぐに台北に向かった。
基隆から台北まで列車で四〇分、切符代は6元。日本円で約五四円である。(昭和四十二年現在で、一元は約九円)
車窓からは、異国情緒たっぷりの景色が次から次へと飛び込んでくる。煉瓦造りの赤い建物、どの家の入り口にも真っ赤なお札が貼られている。台湾は煉瓦造りの家が多く、この沿線は煉瓦工場が多くあることでも有名である。右手には基隆河が流れ、時々灰色の川面を見せる。基隆河は台北のすぐ北で石門水庫 から流れ落ちる淡水河 と合流し淡水港に流れ出る。
列車の中で、高校生の集団と話をした。その中でも目の大きな可愛らしい女の子は、どんどん英語で色々なことを質問してくる。その英語の発音がとても綺麗で、しかも正確で驚いた。英語には結構自信のあった私でさえ、たじたじであった。日本の英語教育は間違っているのではないかと、疑いを持ったほどである。

・台北の旅館
 台湾の首都台北に着いた。とにかく人が多いと言うのが第一印象で、東京と同じようなものだ。通り過ぎる人々も私の思っていた台湾人とはどこか違うような気がする。ひょろっと細長い躰、眉の薄い切れ長な眼、確かにそういう人もいるが、日本で見る顔と変わらないような気がした。ふと仲間の顔を見ると、こちらの方が台湾人に似ているかもしれないと思えた。
中国服を着ている人もほとんどいない。最近の日本でも、着物姿の女性のほとんどがお年寄りであるのと同じことなのだろう。
台北駅を出て、私たちはまず旅館を探すために歩き出した。泊まる当てはただ一つ、日本でいうユースホステル「青年服務社」である。重い荷物を背負ってやっとの思いでたどり着いた青年服務社では満室のために断られてしまったが、何とか安い旅館を世話してもらうことができた。
その旅館は、台北駅の目と鼻の先の信陽街の一角にあった。正面は鉄筋造りのいかにもホテルらしい建物であったが、私たちが借りた部屋は、その立派なビルの後ろにある日本時代に建てられた木造の古い建物の中にあった。鍵もない畳部屋である。
部屋の中央には笠もない裸電球が一つ、赤茶色に光っていた。板戸は、きちんと閉めたつもりでも常に一、二センチは空いてしまい、廊下を通る人影がちらちら見えた。廊下は板張りで、仲居さんの足音が部屋の中を横切っていくように響いた。窓は釘で打ち付けたかのように重く、無理矢理開けようとすると窓ごとはずれてしまいそうだった。くすんだ窓ガラスからは、向かいの汚らしいビルの壁しか見えなかった。勿論、隣部屋の話し声は耳をふさいでも聞こえた。
 旅館の名前は「新生大旅社」。「大」の字が無性に腹立たしく感じられた。
 台湾の旅館で目立つのは、仲居さんの多いことである。十六・七の娘から五十代の貫禄のあるおばさんまで、その旅館にも三〇人くらいはいただろうか。
 台湾では仲居さんに決まった給料はなく、チップだけが彼女たちの収入源である。儲かる職業ではないのに仲居さんが多いのは、食うに困らないだけでも上等だということなのだろうか?
 仲居さんの中には日本時代に日本教育を受けた人も多く、信じられないほど日本人には好意的であった。お茶を運んで来ては、日本時代を懐かしみ、仕事も忘れて長いこと世間話をしていった。なかには、自分の息子は歌がうまく、キャバレーのようなところで歌を歌っていて、レパートリーの中には日本語の歌も多いと自慢していた仲居さんがいた。ある日その息子がわざわざやってきて、私たちの前で日本語の歌を歌って聞かせてくれた。
彼女たちは日本人を懐かしみ、日本製品を絶賛した。私たちの持っている日本製品を譲ってほしいと、毎日のように仲居さんがやって来た。日本の薬を持っていないか? 着古したものでもいいから、日本製の夏物のシャツを譲ってくれないか? 日本製のものなら何でも買うよ!
 その当時、日本製で最も好まれていたものは、化粧品・女性用下着・シームレスストッキング・電気製品・折りたたみ式洋傘・台所用品などである。この需要と供給の関係をうまく利用して、台湾の滞在費を少しでもうかそうとしている日本人学生がいたのには驚いた。

・台北の食事
 私が初めて台湾で食事をしたのは、この旅館の脇の屋台であった。油で汚れた調理台やおかずの入ったガラスケース、その前にテーブルが二つと八個の丸椅子。ガラスケースの中のおかずは小皿に盛られていて、数匹の蠅が止まっている。奥の樽には冷めかかったご飯が入っていて、どんぶりの蓋のようなお茶碗一杯で一元(約九円)だった。豚肉と高菜を炒めたおかずは一皿一元から三元で、何とも言えない味がした。お米は外米といわれている長粒種で、ぱさついてのどに引っかかった。
 部屋に戻るとすぐに、気休めのために整腸剤を飲んだ。次の日からは、覚悟を決めて一食三元(二七円)の食事に挑戦したが、不思議と日を追うにつれてその店の味に慣れていった。さらに、五種類ほどのおかず全てに挑戦してみた。

初めての台北で、いつも気になっていたことは、何を食べようか、いくらかかるかといった事ばかりで、もちろん観光などする余裕もなく過ごした。
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[2011/11/04 23:56] | 台北
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三度目の台北(昭和四十四年三月)

・台北の屋台
 私は今三度目の台北を訪れている。その間、タイワンザル調査は二度行われているが、その事はもう少し後で書くことにして、この二年間での台北の変化などを書き記しておく。

 例の屋台食堂は、初めて台湾に来た二年前には、台北の町中ならどこにでも見うけられたが、一年半前に政府の指示でほとんどが台北のある場所に移されてしまった。そのために、台北駅前の悪臭は見事に消えた。
 私が通った新生大旅社の隣の屋台食堂も、今ではきちんと屋根の付いた、当時よりはこざっぱりした食堂になっていた。しかし、おかずの入ったガラスケースは全くそのままで、蠅が群がっている有様も以前のままであった。何より嬉しかったのは、メニューが貼ってあって、おかずケースのおかず以外の料理を注文できることだった。
 
・輪タクとタクシー
 屋台が台北の中心街から移転したとき、もう一つ台北の町から消えたものがある。タクシーの元祖に当たる「輪タク」(三輪自転車)である。二年前、台北駅前は客待ちをする百台近い輪タクで埋まっていた。その輪タクも、交通事故の元になるという理由で台北市内から追放されたのである。
竹皮の笠をかぶったおじさんが輪タクを懸命にこいで走っている姿は、いかにも南国的であり、私のとても好きな風景の一つであったが、近代化の進んでいる首都台北に、もはや輪タクは必要ないというのも時代の流れであろう。
しかし、輪タクが無くなったからといって、交通事故が減るとはとうてい思えなかった。 私が台北で驚いたことの一つに、自動車運転手の不道徳さがあげられる。信号も歩行者もほとんど無視。さらに、交通整理をしている警官の指示も無視する車がいる。信号機のある横断歩道を渡るときも、車は止まってくれない。クラクションを鳴らしながら、横断歩道の人の列に突っ込んでくる。台北を案内してくれた知人は「信号を当てにすると怪我をしますよ!」と言っていた。
自動車が歩行者を無視して大手を振って走っているだけあって、台湾で自動車を買うには日本の倍くらいのお金がかかるそうだ。走っている車のほとんどが日本製で、他はアメリカ製が多い。つい数年前に台湾国産第一号車が作られたと聞いたが、台湾製の車は一度も見かけなかった。
オートバイは全てが日本製である。台湾人で日本のオートバイメーカーの名前を知らない人はいない。山奥に住む高砂族でさえ、スズキ、ヤマハ、ホンダの名前をよく知っている。日本にメグロというオートバイメーカーがあったことも、台湾の人から聞いて知った。鈴木、本田という姓の日本人は、なぜか台湾人にはとても歓迎される所以である。

・台北市内バス(公共汽車)
台湾はその面積(九州ほど)の三分の二を急峻な山に覆われているために、日本ほど鉄道が発達していない。鉄道に代わって台湾の人の足となっているのはバスである。
台北の市内を移動するにも、バスかタクシーを利用する。バスターミナルは台北駅の西側にあり、そこでは遠距離用のバスが発着している。
市内を走るバスは、台北駅前の中正路の道路中央に停留所があるのだが、停留所は駅前から中華商場に向かって延々と三百メートルも続いている。バス停には0番から50番ほどの番号が付いていて、番号によって行き先が決まっている。一見便利なようだが、外国人や外来者にとっては行き先と番号が分からないのだから大変なことになる。行き先とバスの路線図を照らし合わせながら、運の悪いときには三百メートルも歩かなければならない。台湾大学に行くバスを探し出すために、まるまる一往復バス停をうろうろしたことがあった。結局見つからずに露天のお店で聞いて、それが「0(ゼロ)南」のバスであることが分かった。バスに乗るまでの時間の方が、バスに乗って台湾大学に着くまでの時間より遙かに長かったのを覚えている。
 0(ゼロ)が付いているバスは市内循環バスだから、台北市内をバスで見学するときには便利である。バスには、銀色に青い線の入った国営の公路局のバスと、黄色の市営バスがあり、見た目も少しきれいな公路局のバスの方が料金も少し高い。乗客も公路局のバスは金持ち風が多く、幾分空いている。
バスは中国語で「公共汽車」と言い、タクシーを「出祖汽車」と言う。自動車を汽車とと書かれると、木炭車を連想してしまう。日本語の「汽車」は中国語では「火車」と言う。 日本人は誰でも学校で漢文を習うし、日本語の漢字は元々中国からの借り物だから、中国語と日本語には多くの共通単語があるにはある。だから、中国語の文章に何が書かれているのかは、何となく分かる。しかし、中国語で筆談する時には、ちょっとした注意が必要である。
 「吃(ツー)」 は「どもる」ではなく「食べる」。「新聞(シンウェン)」は「ニュース」で、新聞は「報(パオ)」とか「報紙(パオツ)」。「告訴(カオスー)」は告訴するというような大げさな意味ではなく、告げるという軽い表現である。「会(ホイ)」は会うという意味もあるが、日常では「~できる」という助動詞に使われることが多い。
会うは「見(チェン)」で、見るは「看(カン)」。「東西」と書いてあっても方角ではなく、品物という意味である。これらはほんの一部であり、他にも数え切れないほどある。

・タクシー(出祖汽車)
 本題に戻ってタクシーの話をしよう。
 台湾のタクシーは、真っ赤に塗られているので遠くからでもすぐに分かる。最近では、アメリカのように黄色のタクシーも増えてきたが、赤に比べたらその数はまだ少ない。赤というと、共産主義国家や共産党の旗を思い浮かべてしまうが、そう言う意味では台湾(中華民国)は赤を敵として戦い、そして今も戦っている訳だ。にもかかわらず、台湾の中は赤いタクシーや赤く塗られた家だらけである。台湾人には、赤が共産主義の敵という
感覚がないのだろうか?
台湾のタクシーは五人乗りの中型車がほとんどだが、定員オーバーには無頓着のようである。一度、台東で運転手も含めて八人も乗ったことがあった。五人グループの時は、とにかくとても助かる。
料金は日本よりずっと安く、初乗りが2kmまで六元(日本円で約五四円)、その後は二元ずつ追加されていく。安いのはよいが、「常夏の島」台湾のタクシーに冷房が入っていないのは乗る身には辛い。まあ、当時はそれが当然だったのだが。

・喫茶店
台湾を「常夏の島」と呼ぶのに疑問を持つ人がいるかもしれない。特に、台北で長く生活した人は、台湾も寒い所だと言うだろう。でも、私は台湾での生活のほとんどを南回帰線以南で過ごしていたので、どうしても台湾は常夏の島というイメージから抜け出せない。
 ある時、私は台東で子供をつかまえて「雪というのを知っているか?」と尋ねた。台湾の高所には毎年雪が降りスキー場さえあるというのに、子供たちは揃って「不知道(プーツータウ)」(知らない)と答えた。そこで懸命にその子供たちに雪というものがどういうものかを教えようとしたが、結局分かってもらえなかった。雪を知らず、半裸になって遊んでいる子供を見ていると、台湾はやはり常夏の島なのだなあと思えた。

 台湾で暑さをしのぐ場所は意外に少ない。私たちのように安旅館に泊まっていては、古びた扇風機だけが頼りである。日本でなら喫茶店に行けば暑さをしのげるが、台北ほどの都会にも喫茶店はあまり無い。少ない喫茶店を探して一度行ったことがある。
 喫茶店の入り口には必ず「冷気開放」(冷房中)と書いてある。飲み物の値段は日本並みであるから、生活水準の低い台湾にしてみればかなりの贅沢である。店内は日本よりやや暗い感じがする。
 台湾の喫茶店のよいところは、ジュース類が豊富で、正真正銘のジュースを飲ませてくれることだ。コンクジュースを割って作ったり、コップ一杯のフレッシュジュースから何人分ものジュースを作ったりしない。さらに、南国の果物であるマンゴウやパパイヤなどのジュースもあるし、生で食べることもできる。 コーヒーはアメリカンに近く、日本人にはちょっと物足りないかもしれない。コーラもあるが、台湾メーカーの作ったコーラ「黒松可楽」は薬臭くて飲めなかった。この台湾製コーラを口にした時、小学6年生の夏に札幌駅で初めて飲んだペプシコーラが、薬臭くて飲めなかったことを思い出した。
初めて喫茶店に入った時、ウェイトレスと言葉が通じないために面白いことがあった。 私が注文したアイスコーヒーをウェイトレスが持ってきたのだが、グラスの中には2本のストローが入っていた。小さい頃いたずら半分にコップの中に2本も3本もストローを入れて飲んだことはあったが、喫茶店で一つのグラスに2本のストローが入っていたことはない。蜜月旅行のカップルのために2本のストローというのはどこかで見たような気がしたが、私と一緒に座っているのは無精ひげを生やした野郎どもである。不思議に思って、何で2本もストローが入っているのですか?と聞こうと思ったが、そんな言葉が最近勉強したばかりの中国語でとっさに出てくるわけがない。それでも、二つという中国語は知っていたので、「二個(リャンコ)?」と疑問文式に語尾を上げて聞いた。本当なら、「為什麼有二枝吸管(ウイシェンモリャンツーシークァン)?」(なぜ2本のストローがあるのですか?)と聞くところだった。女の子は、私の言った言葉を聞いたのか聞かなかったのか、何も言わずに行ってしまった。薄くてまずいコーヒーだった。しばらくすると、先ほどの女の子が私の前に立って、2本のストローを差し出した。私はその2本のストローを握ったまま、立ち去っていく女の子の後ろ姿とそのストローを代わる代わる見て、いったい何が起こったのかと…呆然としていた。
 こんな間違いや勘違いをしながら、言葉は次第に覚えていくものである。

・煙草
喫茶店に付きものであるのがタバコである。台湾でもタバコは、専売であり酒とともに「台湾省菸酒公売局」で製造販売されている。種類は十数種類あり、味は臭みがあってあまりおいしいとは言えない。タバコの値段は、喫茶店の飲み物の値段と同じでかなり高いといえる。日本のハイライトに相当するのは「長寿」という黄色いパッケージのタバコである。日本で労働者のタバコと言われている「いこい」に相当するのは「新楽園」であろうか。台湾ではタバコは贅沢な嗜好品であるために、大学生はほとんど吸っていない。台湾の子供に「あなたはタバコを吸っているから悪い学生だ!」と言われたことがある。タバコと長髪と麻雀が、台湾の学生の善し悪しを決める基準となっているのである。
 台湾でのタバコの役割には日本と違って面白いことがある。タバコが挨拶代わりに使われるのである。もし町中で友達に出会ったとしよう。挨拶の言葉を交わしながら、タバコを勧める。もし自分がタバコを吸わないときには、自分の両手を握って「謝謝(シェシェ)」と言う。日本では、人にタバコを要求することはあっても勧めることはない。自分のタバコは自分で吸っただけ無くなっていく。郷に入れば郷に従えの格言通り、私もそれをやってみたが、相手が多いときには自分で三、四本吸っただけで一箱空いてしまう。確かにタバコは贅沢な嗜好品である。

・台湾大学
 台北に着くと必ず台湾大学に行く。挨拶と情報交換である。文化人類学教室は、図書館にしても展示室にしてもかなり充実しているが、動物学系には、タイワンザルに関しての資料など全くない。それでも、挨拶はしておかなければならない。
国立台湾大学は日本統治時代には帝国台湾大学と呼ばれていた。台北駅からバスで二〇分ほどの所にある。台湾の学校に国立・省立があるのは、少々不思議である。現在の台湾すなわち中華民国には、台湾省と福建省の二つしかなく、福建省は金門と馬祖諸島だけで事実上の福建省は中共にある。だが、ゆくゆくは大陸にある福建省や広東省をはじめ全ての省も中華人民共和国ではなく、中華民国と言う国名を頭につけるのだという意図が伺える。 台湾大学の構内は台湾の最高学府にふさわしく、すばらしいの一言に尽きる。幅三〇メートルもある大学のメインストリートは、遙か彼方まで椰子の並木が続いている。日本時代を忍ばせる煉瓦造りの赤茶けた校舎からは底知れぬ荘厳さが伝わってくる。そして、その校舎とは対照的に真っ白な壁の近代的な校舎もいくつかあった。三月ともなるとツツジが満開となり、椰子の並木の下に素敵な花園を作り出している。
学内を歩いている学生と言えば、どことなくおおらかな感じの学生が多い。彼らと話をしてみると、流暢な英語でいろいろな質問や答えが返ってくる。彼らの英会話能力は日本の大学生の数倍であると悟った。大学構内でたまたま拾ったノートには、講義内容が全て英語で書かれていた。日本で読み書きばかりに慣らされた私たち大学生にとって、彼らと対等に話をするにはもっともっと努力が必要である。
 台湾の大学を出た者の多くは、アメリカへ行ってしまうという。アメリカの次に彼らが興味を持っているのは、日本である。日本に対する関心はいろいろな意味で強い。アメリカより日本へ行って勉強したい、あるいは卒業したら日本の企業に就職したいと言う学生も多く、最近は第二外国語に日本語を選択する学生が急速に増えてきたという。

台湾大学は台湾では名実共にトップの大学であるが、実験設備などはかなり不足している様子だった。物理学系(学部は院、学科は系という)のある実験室を訪ねた時、辺りにある器具や装置のほとんどが、廃品利用の自作物であった。「こんなのは全部自分たちで作らなきゃならないんだ。何となく戦前の日本の様でしょう?」と、物理の教授は少々照れくさそうに、流暢な日本語で話してくれた。

・中華路のお土産屋
香港や神戸の夜景が百万ドルなら、台北の夜景は四十万ドル程度だろうか。台湾の人は暑い日中には外に出たがらないためか、夜はまた一段と人混みが激しくなる。中でも、夜景がきれいで賑やかなのは中華路である。
 台北駅前の中正路を淡水河に向かって西に歩いていくと、中正路が鉄道とぶつかったところに城門がある。この城門は北門で「承恩門」と呼ばれ、清朝時代に台北城が築かれた時に作られたものである。日本統治時代の都市計画によって西門と城壁は撤去されたが、東・南・北と小南門の四つの城門は残された。
そして城壁の後に、中華路・中正路・中山南路・愛国路ができた。
北門を南に折れると、そこから中華路が続いている。中華路の鉄道沿いには三階建てのビルが八棟並んでいて、そこが俗に「東洋一長いバザー」と呼ばれている中華商場である。ビルの一階のほとんどは「特産行」という観光客目当てのおみやげ屋になっている。
歩きだすとすぐに、「イラシャイマセ! ドーゾ、イラシャイマセ!」と途絶えることなく声をかけられる。ちらっと中を覗いてみると、売り子は皆可愛らしい若い娘達ばかりである。「いらっしゃいませ!」ではなくて「イラシャイマセ」という発音が何とも良い。外国に来ている実感が湧いてくる。
彼女たちは、店の前を通る外国人が何処の国の人間かを瞬時に判断して声をかけている。どうして香港の人と韓国の人と日本人と、それに台湾の人との区別がつくのですかと聞いたことがあった。日本人である決定的な判断基準は、髪が長く、眼鏡をかけてる人が多く、ほとんどの日本人がカメラを提げていると言うことだった。その当時私はまさにそのような格好をしていたのである。
もし暇をもてあましたら、おみやげ屋で時間をつぶすのが一番だろう。烏龍茶などのお茶を出してくれるし、タバコも吸い放題、言葉の勉強もできる。何時間いても、何も買わなくても、いくら商品を値切っても、文句一つ言われない。
ただし、ひやかし半分に品物を値切ったとしても、値切った額でOKが出たら、これは必ず買わなければならない。これは値切り買いのルールである。
店の入り口に「不二価」と書いてある店は、「当店は値引き致しません!」と言う印である。この「不二価」の無い店でなら、思う存分値切って構わない。当時の感覚では、値札のおよそ六割から五割位までは値切れたように覚えている。
台湾の人は、手先が器用で偽物作りがうまく、口も達者で売るのもうまい。当然、買った品がまがい物である可能性も十分ある。その辺の所も十分計算に入れて、買い物を楽しむとよいだろう。
中華商場のおみやげ屋の小姐(シャオチェ)(娘) は、しょっちゅう入れ替わっている。それも特に綺麗な娘がおみやげ屋から姿を消すことが多い。もともと彼女たちは外国に興味を持っているので、機会が有ればすぐに結婚して海外に飛び出していく。相手国は、日本・香港・フィリピンが主だったところである。
いっぽう、売れ残った娘はいつまででもおみやげ屋に残って、やがておみやげ屋のママになってしまう。
ところで、このおみやげ屋の娘には、誰でも簡単になれるというわけではない。他の職業に比べて給料が良いので、日本語と英語が少し話せなくてはならないし、可愛いか愛嬌があるかでなければならない。聞いたところでは、日本語教育を受けた両親を持つ台湾娘が売り子のほとんどを占めているようだ。
 彼女たちの日本や日本語に対する興味は特別で、店の中でも日本語の教科書を離すことはない。私はおみやげ屋の店の中で、何度となく彼女たちの日本語教師になったし、また中国語を教わる生徒になった。

・外来語の国語表記
 中華路の夜は美しい。中華商場の各ビルの屋上には、巨大な広告塔がひしめき合っており、その色とりどりの光が中華路の華やかさをいっそう引き立てている。
 広告塔と言ってもそのほとんどが日本製品を含む外国製品の広告であり、商品名が中国語の当て字で書かれている。合利他命(アリナミン)、可口可楽(コカコーラ)など、なかなかうまく表せるものだと感心する。
日本語にはカタカナがあるので外国語は皆カタカナ表記するが、ほとんど正しい発音になっていない。そのために、英語の習得にカタカナ表記の日本語英語が障害になることもある。漢字で外国語の発音を表わすのは、大変やっかいなことのように思えるが、中国語発音の場合ならカタカナよりも微妙な音まで表すことができる。
中国語で表した外国の地名は、日本語にも数多く取り入れられている。英国(インクゥオ) の英の字は、イングランドのインの字に他ならない。他にも、桑港(サンカン)(サン(・・)フランシスコ)や倫敦(ロントン)(ロンドン)などあげればきりがない。
純粋な日本語だろうと思って普通に使っている日本語の中にも、中国語そのものだったりすることがある。手紙に使う、「拝啓」「敬具」「匆々」などはれっきとした中国語である。また「暖簾(ノァンリェン)」や「基督(チートゥ)」は、どう読んでも「のれん」「キリスト」とは読めないが、これも中国語なのである。

・台北の盛り場
 中華路の次に賑やかなところと言えば、西門(シーメン)から成都路(ツェントールー) 一帯の映画街である。日本映画に人気があるようで、映画館前は連日人がごった返している。夜になると映画街の横町に色とりどりのネオンが瞬き、怪しげな雰囲気が漂う。この一帯には「沙竜(ツァーロン)」 と呼ばれるバーが密集している。「酒館(チュークヮン)」という、沙竜より少し高級なバーもかなり多い。
 主に外国人を相手にする「酒吧(チューパ)」は、ここから少し離れた 中山北路(ツォンサンペイルー)一帯に集中している。また、日本で言うナイトクラブ「夜総会(イエツォンホエ)」 は、高級ホテルや市内に点在している。
 日本の盛り場を一人で歩く時には、一応の覚悟をしておく必要がある。いつ何処でチンピラに因縁を吹っかけられるか、ヤクザの喧嘩の捲き沿いになるかしれない。そこにいくと台湾の夜や繁華街はとても平和である。(この当時の話)

 台北の夜が本当に平和だと感じたのは、台湾大学の林助手に案内されて、保安街(パオアンチェ)を案内された時だ。保安街はちょうど台北車站の真北に当たり、別名を「公娼街」と言われている。日本にも昔遊郭があったが、十数年前に施行された売春禁止法によってその姿を消してしまい、今では法の目を盗むように一部の地域に見られるだけである。
ピンク・ブルー・グリーンなどのイルミネーションは、中華路や西門町のそれとは異なった怪しさがある。その妖しげな光を受けて、みだらな格好で足を組んでソファに座っている女。どぎつく化粧をしてタバコを燻らしている女。どの顔も笑いを忘れたかのように陰鬱だった。
各館には、店の名前と甲・乙などのクラスが表示されている。この一帯には、甲・乙・丙・丁の四クラスの公娼があった。
 私が店を覗き込むように歩いていると、ポン引きの男が話しかけてきた。「コンバンドウカ?ヒトズマモイルヨ、ガクセイモイルヨ、ミンナマッテルヨ、ヤスイヨ!」 ここでも私は日本人だと言うことがばれている。
川や横浜の薄暗い路地裏で、ポン引きに声をかけられたことがある。日本のポン引きは多かれ少なかれヤクザなどに関わっている事が多いから、そんな時は、できるだけ目を合わさないようにして、早足で逃げ帰ったものだ。
でも台湾のポン引きは、その辺の人の良いおじさんがアルバイトでやっているといった感じで、それに人なつっこそうで、ちょっと雰囲気が違うようだ。私を誘うのに失敗したポン引きは、林助手に近づき世間話をしだした。私たちが公娼街を一巡して林助手のところに戻るまで、ずっと大声で笑いながら話していた。何とものどかで平和な台北の夜であった。

・台北庶民の味
 台北の町中で、庶民的な賑やかさが感じられるのは、南京西路・天水路・重慶北路の交差点である。そこはロータリーになっていて、俗に円公園とも呼ばれている。百軒近くの食堂と屋台が並ぶ、台北でも有名な食堂街である。ここではかなり高級な中華料理から庶民の味まで堪能できる。
「日本女性と結婚し、西洋の家に住み、中華料理を食べる」と言うのが男の理想だというほど、中華料理の味の良さは世界的にも有名である。また、どんな食材も料理にしてしまう。言い方はいろいろあるようだが、「空を飛ぶ飛行機と、地をはうタンク(戦車)以外は何でも食べる」と言われる。
味の芸術ともいえる中国料理の歴史は古い。今から三千年前の春秋時代にはすでに割烹技術が研究されていて、料理法を書いた書物(周礼・礼記・食経・食譜・食珍録など)が十数種もあったそうである。
 台湾の名菜(ミンツァイ)(有名な料理) には、江蘇・北平・湖南・四川・雲南・広東・山西・福建・台湾・蒙古・などがある。その他にも回教徒の羊肉料理や仏教徒の精進料理などもあるし、もちろん鮨・天麩羅をはじめとする日本料理屋もある。
 「食在広州」(食べるなら広州、すなわち広東料理)と言われているように、日本人や外国人に比較的好まれるのは、調味中庸の広東料理だそうだ。でも、比較的濃厚な味を好む私には、本場の台湾料理が一番口に合う。とはいっても、貧乏学生の貧乏旅行では、名菜をしょっちゅう口にできるわけもなく、もっぱら屋台や露店の食堂にお世話になった。

 中国では、食事の時には決まって丸テーブル(円卓)を囲む。その昔ある王様が家臣に毒殺されることを恐れて、一つの皿からみんなで食べるようにしたのが始まりだそうだ。
 この丸テーブルでの食事は、とても合理的だと思う。一人一人に取り皿はあるものの、全体の食器が少なくて済むので、洗い物の数が減る。大食漢は沢山、小食の人は少し、その人の食欲によって好きなように食べればよい。また、自分の好きな料理が沢山食べられるし、好きでないものは手をつけなくても誰からも文句が出ない。円卓一つで、十二人くらいまでなら充分一緒に食事ができるので、途中で人数が増えた時などは大変便利だ。それぞれがほんのちょっと椅子を後ろに引くと、一人ぐらいはゆうにはいることができる。
ただし困ることもある。台湾大学近くの料理屋で大学の教授にごちそうになった時の話である。台湾料理の店で、酢豚や魚料理、野菜の炒め物などが次から次へと運ばれてきた。その中に、鶏のスープというのがあった。私はそのスープの中に箸を入れて、一塊の肉をつまみ上げたつもりだったのだが、それは何と鶏の頭だったのである。もちろん、トサカもクチバシもちゃんとついている、正真正銘の鶏の頭である。ふやけて閉じている目が、死んでいる鶏であることを強調しているように思えた。びっくりして思わずスープの中に鶏を戻そうとしたが、一度箸でつまんだものを戻すわけに行かない。これは礼儀でもあるし、我が成田家の家訓でもある! が……戻したい!
でも、円卓なので、皆が見ている! 震えそうな手で、その頭を自分の取り皿に置き、気持ちを静めてまた食事をはじめたが、次の瞬間、今度は鶏の足をつまんでいた。
そのスープの中には一羽の鶏が丸ごと調理されていたから、頭が一つと足が二本あったわけだが、三分の二を私がつまみ上げたわけだ。足の鱗はヘビのようで、さらに気味が悪かった。
教授の話では、スープの中に肉はたくさんあるが、頭と足は合わせても三個しかないので、必ずお客様に食べてもらうのが台湾の習慣だとか……。

・夜働く子供達
 夜遅く町を歩いていると、子供の姿が目につく。夜の十一時頃に、小学生くらいの子供が屋台でジュースを売っていたりする。
台湾ではつい数年前まで義務教育は小学校までだった。今では日本と同じ中学までとなっているが、中学に行っていない子供も多いそうだ。子供にも働いてもらわなければ、食べていけないのだろう。一般のお店がシャッターを下ろし、露天の世界が広がる夜十一時頃に、ローソクやアセチレンの光の下で、汗を流しながらせっせと働いている女性や子供を見ると、昔日本にもこんな時代があったのだろうと、色々なことを考えさせられる。
彼らの中には自分の家が無く、夜は屋台の上に布団を敷いて寝るという人たちもいる。 屋台がたたまれて、ローソクやアセチレン灯の光が消える頃、本当の夜が台北にやってくる。

・台湾の宗教
 台湾を旅行してまず目に付くのは、寺院や廟などの宗教関係の建造物である。わびさびといった雰囲気の日本の神社仏閣とは違って、けばけばしく彩色されているので一見してすぐそれと分かる。
 台湾の宗教で一番多いのはもちろん仏教で、総人口1300万(1968年現在)の三分の二以上(約800万)が仏教徒であると言われている。
中国伝統の道教も大変盛んであり、道教の廟は島内に1800以上あるそうだ。
 人間の住んでいるところ必ずキリスト教ありと言われるほど宣教活動の盛んなキリスト教が台湾に入ったのは、三百年以上も前のことである。カソリックのドミニコ教会に属す四名の司祭と一名の教徒がフィリピン経由で台湾に渡来し、今日のカソリック教会の基礎を作り上げたと言われている。プロテスタントはその後の1860年というが、それでもすでに百年以上の歴史を持っている。 台湾のキリスト教信者は、プロテスタント(基督教)が一五万人、カソリック(天主教)が二五万人である。
山地同胞と呼ばれている高砂族の中にもキリスト教はかなり浸透しているが、彼らの中にはキリスト教信者と言うより、教会からの救済物資目当ての者が多いのは無視できない。 回教徒の数は約四万人と少なく、信者の居住地も台北市近郊に限られている。しかし、台北市内にあるアラビア式モスクの聳える巨大な清真寺を見ると、とても四万人の信者しかいないとは思えない。

 中国寺廟の代表的建築と装飾を誇っているのは、市の西南地区広州街にある「龍山寺」である。龍山寺は、二百数十年の歴史を持つ市内最古の建造物としても有名で、観音菩薩を本尊に様々な仏様がまつられていて、一年中香火が絶えることはない。

・龍山寺とおみくじ
 初めて龍山寺を見たとき、ずいぶん派手なお寺だと思った。中国寺廟のけばけばしさは、柱の彫刻と屋根の色彩からも感じ取れる。龍や鳳凰などの屋根飾りは、赤青白に塗られたガラス片を突き刺すようにして作られており、双眼鏡でよく見ると結構粗雑な作りだ。でも、太陽の光を受けたときや夜ライトアップされたときには、息を呑むほどの美しさに見える。
 花火のように大きく太い線香からは煙がもくもくと立ち上がり、付近は香の匂いでむせかえるほどであった。
 台湾にも日本と同じように「おみくじ」がある。龍山寺ではただでおみくじが引けるためか、おみくじを引く観光客の姿が特に目立つ。
 日本のおみくじは、たくさんあるおみくじの中から自分の好きなものを選ぶか、あるいは箱の穴から出た筮竹の番号と同じ番号のおみくじを引くといった単純なものであるが、台湾のおみくじはもっと複雑で、おみくじを引く者に何となく神秘的な気持ちを起こさせる。
 まず仏前で線香をあげるのだが、線香代を節約し、これは省略した。仏卓前には三日月型の「神ペイ」と言う木で作られた一対の神具が置いてある。これを両手で持って、目をつぶって願い事を言いながら手から放す。神ペイは軽い音を立てながら足下に落ちる。神ペイには、丸みがつけられた表と平らな裏があって、地に落ちたときに表と裏が出ればよい。もし両方表とか両方裏が出たときにはもう一度最初からやり直す。
 神ペイが表裏同時に出たら、願い事を聞いてもよろしいというお告げなのだそうだ。そして仏卓の脇に置いてある「籤筒」(せんとう)という筮竹が入った筒から筮竹を一本抜き取り、仏卓の上に抜き出した筮竹を置いて、再び神ペイを投げる。神ペイが表裏同時に出れば、その筮竹でよろしいと言うことなのだが、もしそうでないときにはまた最初からやり直す。筮竹には一番から一〇〇番までの数字がふってあり、筮竹もよろしいと言うことになってはじめて筮竹と同じ番号のおみくじを抜き出すのである。おみくじは仏殿に向かって左手奥にあった。
 宝くじに当たったこともない私が、この時だけはたった一回の挑戦で全てうまくいってしまった。
 おみくじには七言絶句の漢詩が書かれている。「解白」の欄には、日本のおみくじと同じように運勢・金運・仕事などの吉凶が書かれているはずなのだが、私には七言絶句の意味も解白欄の内容も、何のことだかさっぱり理解できない。七言絶句にはこう書かれていた。
 過了憂危第幾重 従今再歴永無凶
寛心自有寛心計 得遇高人護聖功

文はともかく字だけを見ると、結構良さそうである。解白欄の最後に「吉」と書かれていたので、どうやら私のおみくじは吉のようだ。解白欄にはこう書かれていた。
 訟中有理病得安痊出外求望枯井逢泉凡事遇貴則吉
なお、仏殿の右奥に翻訳所があって、外国人に日本語や英語で無料で解説してくれるのはありがたい。
 
・台北の公園
 観光客にも一般市民にも、台北の雑踏から抜け出して一人ゆったりできる場所は、公園くらいしかない。
 「中国人(・・・)と犬は公園に入れるな」という言葉を本で目にしたことがあったから、公園には是非行ってみようと思っていた。
 私が最初に行った公園は、台北駅の真南にある「新公園」であった。鉄の回転扉を抜けて公園にはいると目の前に博物館があり、その後ろに公園が広がっている。園内の中央には蓮池があり、池の中に三階建ての中国宮殿式東屋がある。蓮池からさほど遠くない所に野外音楽堂があり、ベンチに座ってくつろいでいる学生の姿が目につく。
芝生や花壇、そして樹木もとても綺麗に整理されて管理が行き届いている。台湾人ももとを正せば福建省や広東省からの移民であるから中国系ではあるが、中国人(・・・)ではないのだと感じた。また、あの言葉はアメリカあたりでの大昔のことなのだろうとも思った。

 新公園の近くの信陽街一帯は、日本の予備校に当たる「補習班(ポーシューパン)」がひしめき合っている。そのために、新公園の東屋や野外音楽堂のベンチは、昼過ぎから夕方にかけて、ノートと本を小脇に抱えた学生で一杯になる。
少しでも涼しい外気の中で勉強に勤しんでいるのであろう。
日中の暑い時間帯を除いて、新公園の美しさや静けさを満喫しにやってくる市民や観光客も多い。日本人観光客にも時々会うことがある。土産屋の娘たちに日本人の区別の仕方を教わっていたので、公園を歩いている日本人はすぐに分かった。見ず知らずの日本人観光客に挨拶をすると、ほとんどの人は「こんな所にまで来て、日本人に挨拶されたくない!」とでも言わんばかりに、不快そうな顔をしてそそくさと立ち去ってしまう。日本人の屈折した性格の表れなのだろうか?

早朝に公園を訪れると、公園内の至る所で老若男女が体操をしている風景を見かける。私たちがやるラジオ体操とは違って動作がゆっくりであり、一種の精神統一の様にも見える。各人各様にやっている様にも見えるが、一応決まった型があるようで、先生と思われる人が手取り足取り教えていることもある。全身の力を抜いて軽く流れるようなその動作は優雅とさえ思え、見ているだけでも身体が休まるような気がした。そして、それが800年の歴史を持つ中国の古武道をもとにした体操、太極拳だと言うことを後になって知った。
夜の公園はいちだんとまた賑やかになる。会社帰りらしいサラリーマンと女性のカップル。孤独を楽しむかのように一人ゆっくりと公園を歩く男。補習班の夜の講義を終えた浪人生の集団もいる。まるで、東京のどこかの公園でも散歩しているような錯覚に陥る。
鉄の回転扉のある博物館前も、夜は異様な賑やかさだ。アセチレン灯やローソクの明かりの下に、いろいろな露店が並ぶ。絵や掛け軸を売る店、アクセサリーを売る店。易者や占い師が特に多い。身なりのあまりいいとは言えないおばあさんが、アセチレン灯の脇にしゃがみ込んで地面になにやら絵のような文字のようなものを書いて、口ごもった声でなにやら客に説明している。まさに、占い師そのものだ。

 台北で一番大きく有名な公園は、なんと言っても南海学園(ナンハイシュエユァン)である。もともとは台北植物園であったが、その後園内に中国歴代の形式を模倣した歴史博物館・芸術館・科学館・中央図書館・台湾電影製片厰(映画スタジオ)・文化教育設備などができ、全てを総称して南海学園と呼ぶようになった。
 植物園には、椰子類やゴムの木などを始め熱帯・亜熱帯の植物が1200種余りあり、植物園としては台湾随一である。園内は植物園としてだけでなく、公園としても市民の間に人気があり、朝夕は散歩をする市民で賑わう。
 公園を歩いていて驚いたのは、園内至る所に飛んでいる蝶の多さであった。東京あたりの公園では決してみられない情景である。
木々の間を縫って飛ぶ赤い大きな斑紋を持ったベニモンアゲハ、太陽の光に羽をきらきら光らせて飛ぶナガサキアゲハ。さすが南国の公園である。

 

[2011/10/31 01:47] | 台北
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