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台湾台東に関わって40数年、その間に経験した楽しかったこと面白かったことびっくりしたことなど、現地の状況や日本との比較なども含めて紹介したいと思います。
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台東の街で(昭和四二年~四三年)

・毋忘在莒(ウーワンツァイチュィ)
 台東車站前の広場には、台湾のどこの駅前にもある国父孫文の銅像が建っている。台東は町が小さく大きなビルなどもないせいか、基隆や高雄車站の孫文像より際だって大きく立派に見えた。
駅の付近には、「反攻大陸」「復興中華」「建設台湾」「毋忘在莒」等のスローガンが相変わらず目につく。
反攻大陸・復興中華・建設台湾は、大陸の共産主義国中共に対抗し、中華民国を復興して台湾の建設に邁進しよう!と言うような意味であるが、「毋忘在莒(ウーワンツァイチュィ)」は意味がよく分からなかった。毋を母と間違えていたし、莒は急行列車の名称「莒光号(チュィクァンハオ)」で見ただけで知らない漢字だった。
母は莒(きょ)に居る事を忘れている? 何のことだこれは? 知人に教えてもらって分かったのだが、これを漢文読みすると、
 「莒(きょ)に在(あ)るを忘(わす)るる毋(なか)れ」となるのだそうだ。
 今から2250年ほど前の戦国時代に、燕(えん)の国王 昭王(しょうおう)が楽毅(がくき)という将軍に命じて斉(せい)国を征伐させた。楽毅は、莒州(きょしゅう) と卽 墨(ぼく) の二つ以外の斉国の城七二を全て攻め落としたが、斉国の襄王は莒州に逃げ、田単(でんたん)という知勇優れた者を将軍に立てて、燕軍の侵略を防いだ。田単は、二城を五年間守り抜き、ついには奇襲法を用いて強大な燕軍を倒し、斉国の失地を全て取り戻した。
毋忘在莒(ウーワンツァイチュィ)というのは、中国大陸という失地を中共から取り戻し、新しい中国を作らなければならないことをこの物語から教えた、国民精神総動員(?)のスローガンなのだそうだ。

・台東の町
 台東車站前から真っ直ぐ北に延びる中山路と東西に走る鐵花路の右角に公路局のバスターミナルが、左角には鼎東(ティントン) バスの海線のターミナルがある。そこは、台東車站とは対照的にいつも人で溢れている。台湾人・外省人・高砂族、あるいは若くてスタイルの良いバスガイド小姐(シャオチィェ)(娘)、憲兵や軍人など様々な人々が行き来していて、日本人を懐かしんで話しかけてくる人も多い。 
台東の繁華街は、中山路沿いと中山路の東側に集中している。
縣政府(県庁)や警察局、消防隊(消防署)を始め、中央市場、旅館、病院、銀行、映画館、食堂街などが五〇〇メートル四方の一画にひしめき合っている。
台東の朝は早い。六時頃には、あちこちの道の両側に果物屋やレモンジュース屋などが立ち並ぶ。子供達が騒ぎ出し走り回るのもこの頃からである。
 牛車がギィーギィーと長閑な音を立てて通る様は、田舎町台東ならではである。

・台東の天然プール
朝早く一番賑やかな場所は、何と言っても公路局のバスターミナルと、もう一つは台東の誇る天然プールであろう。
 台東の市民プールは海岸近くの閑静な場所にある。無料で泳げることもあり、連日子供から大人まで多くの人で賑わっている。私も一度、朝六時頃に泳ぎに行ってみた。すると、もうすでに浮き輪を肩にかけた子供を自転車に乗せて、帰ってくる人達がかなりいるのに驚いた。
なぜ皆がこんなに早くからプールに行くのか不思議であったが、泳いでいるうちに理由が分かった。このプールは、地下水が湧き出ている周りをコンクリで囲い、底に砂利を敷き詰めた天然のプールなのだ。底が砂利と泥になっているため、泳いでいる内にどんどん濁りだしてくるのである。少しでもきれいな内に泳ごうと、日が昇り出す頃から皆やってくるのである。
 私たちが来てから帰るまでの二時間ほど、真っ黒に日焼けした青年がひっきりなしに泳いでいた。スタート台の所には、彼の妹らしい少女がストップウオッチを睨みながら、ラップタイムをメモしていた。聞くところによると、彼の兄は台湾でも有名な水泳選手で、彼も国際的な選手を目指して毎日練習に励んでいると言うことであった。
 台東は、台湾でも一流のスポーツ選手を排出している県として有名なのである。

・昼食と昼休み
 北回帰線から遙か南に位置する台東の日中は暑い。ほとんどの人がこの時間に昼寝をする習慣があるために、ちょうど昼食後の二時間ほどは、町中はまるでゴーストタウンのようにひっそりと静まりかえる。
 台湾の人の昼寝は、まるで仕事の一部のように徹底している。お役人も、三時間近くある昼休み(正式にそれだけの昼休みが認められているのかは別として)には、必ず家に帰って昼寝をする。
 この習慣は、日本の企業が台湾に進出して工場などを経営した時にかなりの障害になったとも聞いている。とにかく日本と同じ勤務時間体系で始めても、二時間近く昼寝をしてしまうのである。
 昼寝の習慣のない日本人の私たちは、この時とばかりに動き出す。
 私たちの宿は、縣政府玄関口から海に延びる大同路にあった。名前は松金旅社。間口はさほど広くなかったが、まるでウナギの寝床のように奥が深かった。旅館からさほど遠くないところに飲食店街があって、朝夕の食事はいつも決まった食堂で食べていた。
 バラックを少し改造したようなその店は、雨が降ると雨漏りのために中央のテーブルは使えなくなるほどのおんぼろ店だったが、休みの時以外は決してよその店には行かなかった。威勢のいいおばさんと、高校生くらいの元気で人なつこい小姐たちが気に入っていた。
 台湾の食堂は二時から五時までは昼休みにはいるので、昼休みになる二時少し前に店に入ることにしていた。この時間だと、お客もほとんど無くゆっくりと食事をしながら、ウエイトレスの娘たちともお話ができる。
 私たちの昼食はいつも決まって水餃(スィチャオ) (茹で餃子)と蛋花湯(タンファタン)(玉子スープ)だった。水餃は十個で三元(二十七円)と、日本で食べる五分の一以下だ。蛋花湯は、玉子スープと言っても、鶏の卵ではなくアヒルの卵である。スープは大中小があって、小が三元、中が五元そして大が七元だったが、私はいつも友達と二人で中を頼んでいた。中と言ってもラーメンどんぶりになみなみ一杯分はあり、二人でも残すほどの量である。蛋花湯の中身はその日によって違うこともあったが、必ず入っていたのは小松菜とトマトで、時々肉が入っていることもあった。
 水餃は手作りだから皮も厚くてしっかりしていて、二十個も食べればお腹が一杯になるが、お腹の空いたときには日本の餃子ライスを思い出してご飯も頼む。すると、店の娘は茶碗を持って店から飛び出していき、隣の店でご飯を貰ってくる。
 水餃のタレは、日本だとラー油と醤油とお酢だが、台湾ではその店独自のタレを作っていることが多い。この店では、生の唐辛子を潰して作った豆板醤と酢と醤油である。好みによって香油が欲しいときには、娘を呼んで頼むと、機械に使う油差しのような容器で、小皿に香油を入れてくれる。台湾人の中には、水餃を食べながら生の長ネギをかじっている人や、ニンニクのスライスを一緒に食べている人もいた。
 水餃の上手な食べ方も、この店で覚えた。 店にはいると、ウエイトレスの娘が小皿と箸と中華レンゲと、餐紙(ツァンツー) というピンクの紙ナプキンを持ってくる。そして、「吃什麼(ツーシェンモ)」(何を食べますか?)と聞いてくる。私はいつも汚れたメニューを指さして「水餃二〇個、蛋花湯中的!」(茹で餃子二〇個、玉子スープの中)と頼む。小皿は水餃のタレ用で、箸もレンゲも紙ナプキンも使い方は分かっているつもりだった。ところが、紙ナプキンは意外な使い方をするのである。他のお客の仕草を見て分かったのだが、誰もがその紙ナプキンで使う前の小皿と箸とレンゲを拭いているのだ。まるで、この店の衛生状態は信用できないと言わんばかりに……。
 茹で餃子は表面がつるつるしているので、先の太いプラスチックの中華箸でつまむと滑ってしまう。初めの頃は水餃を滑らして、テーブルや床に落としてしまうこともよくあった。水餃はレンゲの中に入れて運んでタレにつけて口に持って行くと、落としたりいつまでも掴めずにイライラすることもない。こんな何でもないようなことを覚えては、ちょっと嬉しくなったものである。
レンゲはとても便利な食器であり、その後山に行くときにはいつも金属製のレンゲを持ち歩いた。
私はできるだけ食費を節約するようにしていた。仲間の誕生日の時などには肉絲青菜(ロースーチンツァイ) (豚肉入り野菜炒め)とか炒猪肝(ツァオツーカン) (豚の肝臓炒め)などを特別に注文したが、ほとんど水餃と蛋花湯だけで済ませた。なかには、陽春麺(ヤンツォンミェン)(素うどん)一杯で済ますものもいた。食事を節約した理由は、レモンジュースやかき氷を食べたかったからだ。
 果物を売っている店、アイスクリーム屋、薬草のジュースを売っている屋台等に混じって、露店のレモンジュース屋は旅館からすぐの道の両側に十数軒もあった。
私たちはその中でも旅館から一番近いレモンジュース屋の常連となっていた。一六・七の小麦色をした目の大きな高砂族の娘は、「イラッシャイ!ニホンジンカ?」と初めは片言の日本語で話しかけてきたが、私たちが少し中国語が話せるのを知ってからは中国語で話しかけてくる事が多くなった。
「你們住在哪里(ニーメンツーツァィナーリー)?」 (あなた方はどこに住んでいるか?)とか、「你們什麼時侯要回去日本(ニーメンシェンモスーホーヤオホェチールーペン)?」(あなた方はいつ日本に帰るのですか?)など、初歩的な日常会話であったが、私は片言の中国語で答えた。
そんなぎこちない会話をしながら、娘は生レモンをいくつも潰して500ccのレモンジュースを作ってくれた。

 この当時の台東には、喫茶店は一軒もなかった。暑さを避けてちょっとゆっくりできるのは、氷果店(ピンクゥオティェン) という氷屋である。コーヒーもあるがインスタントでとても飲めたものではない。
 パインアップル、パパイヤ、スイカなどがふんだんに入ったかき氷も、なかなか食べ応えがあり身体も芯から涼しくなった。そのほか、注文すればいろいろなフレッシュジュースも作ってくれるし、果物をそのままカットしても出してくれる。

・台東の旅館
 台東には大きな旅館は少ないが、小規模の旅館は結構多く、ほとんどの旅館は畳みと襖の日本式の部屋を備えている。過去五〇年間にわたる日本統治時代の名残である。
わたしたちの泊まっていた松金旅社は、大きな旅館とは言えないが、台東では結構名の知れた旅館だった。もちろん私たちはその中でも一番安い部屋、すなわち一番粗末な六畳に四人で泊まっていた。一泊の料金が二〇〇元くらいであったから一人五〇元、日本円で四五〇円であった。
当時台東にやってくる日本人がまだ珍しかったためなのかどうか定かではないが、旅館に着いた次の日には必ず警察局から刑事らしい人が何人かやってきて、何しに台東に来たのか?いつまでいるのか?など事細かに聞きに来た。初めての時には、さすがに何事が起こったのかとびっくりしたものである。
そうかと思うと、ローカル新聞の記者が取材に来たこともあったし、余白を埋めるために使われたような私たちの新聞記事を見て、わざわざ会いに来てくれた人もいた。私たちの調査のことがラジオで紹介された事など全く知らされていなかったのだが、ラジオを聞いて私の為に台湾の蝶を届けに来てくれた人もいた。その蝶は全部で数一〇〇匹もあったのだが、残念なことに保管が悪く標本としての価値はほとんど無かった。しかし、その人の好意には頭が下がる思いだった。なんと親切な人々なのだろうと感動すら覚えた。

・台湾の歴史とオデコのおじさん
松金旅館で最も思い出に残っているのは、隣の部屋の見ず知らずのおじさん三人と酒を飲んで語り合ったことだろう。
一人は、戦時中陸軍上等兵として日本のために戦ったという、五〇前後のおでこのひろい目のくりくりした人で、後の二人はあまり特徴のないちょっと若めのお兄さん達だった。 話の内容は、そのほとんどが現在の台湾の政治情勢と日本との関係、比較についてだった。
 実は準戦時体制下の当時の台湾では、公の場では話すことができない内容である。台湾大学の親日派のある教授は、私たちが送る手紙は全て検閲されているので、政治関係のことには一切触れないで欲しいと言っていたし。本人はいつもスパイに監視されていると言っていた。
話の内容を話す前に、台湾の歴史について少し触れておく必要がある。
 
 一四世紀中頃に大陸に国を興した明朝の頃には、台湾近海には倭寇がはびこり、台湾は大陸から完全に隔離されていた。
一六二二年、オランダ艦隊が膨湖島に上陸し、中国軍と交戦を始めた。半年後、オランダは明と停戦協定を結び、膨湖島から撤退することと引き換えに台湾島占領を許された。こうして台湾は、オランダ東インド会社の統治下に置かれた。オランダは台湾に上陸するとすぐに、安平にゼーランジャー城を、さらに台南にプロビンジャー城を築いた。
 一方スペインは、一六二六年に淡水に上陸し、サン・ドミンゴ城を築いたが、一六四二年にオランダに撤収させられた。

 台湾でのオランダの振る舞いは凄まじく、見るに堪えないものであったという。原住民を殺戮し、移住民には重い税をかけた。そのため移住民はまるで奴隷のような扱いであった。そのようなオランダの振る舞いに絶えられなくなった人々は何度となく反乱を企てたが、大国オランダの前には無駄な抵抗であった。
 オランダの支配は三八年間で終わった。オランダを台湾から追放し、その後台湾を統治したのは近松門左衛門の浄瑠璃「国姓爺合戦」でも名高い国姓爺・鄭成功である。彼はオランダを打ち負かし台南にはいるが、二年で病死してしまう。台湾統治はその子供に受け継がれたが、鄭氏の台湾統治は二二年間で終わりを告げる。
その後台湾を支配したのは清であった。清は、約二〇〇年間台湾を支配したが、人民に冷酷無惨な仕打ちをしたために絶えず反乱が起こり、十分に台湾を掌握できなかった。
日清戦争の下関条約によって、日本は台湾を割譲される。しかし台湾に住む清国の役人と中国系移民の一部が「台湾民主国」を作り日本の台湾接収に抵抗したのをはじめ、その後七年間激しい抗日運動が続いた。
 台湾総督府は絶対専制の支配者であり、台湾人民を差別し経済生活を圧迫したのは確かである。言論出版の抑制、集会結社の禁止などとともに、改姓名・信仰の改宗なども行った。日本は欧米から一目置かれる植民地経営を目指していたと言われ、そのため台湾の交通、産業、教育のインフラはある程度整備されていった。
 警察の権力は絶大なもので、人々から恐れられていた。一九三一年の満州事変以降は、さらに憲兵隊まで入り込んで治安維持に当たった。従って日本統治時代の台湾には、泥棒も空き巣も皆無だったと言われるほどである。
日本が台湾の人々に恐れられ嫌われていたにもかかわらず、台湾人は次第に日本人に同化していった。そして彼らがほとんど日本人になりきってしまった頃の一九四五年、日本の敗戦によって日本が台湾から立ち去ってしまい、その後に大陸から同胞として乗り込んできたのが蒋介石とその一派、すなわち現在外省人と呼ばれている人々であった。
台湾の人たちは、大陸からやってきた同胞を拍手喝采で受け入れたのだが、彼らの言動は日本帝国と何ら変わることはなかった。と言うより、さらに酷いものであったようだ。 そんな外省人に一部の台湾人(本省人)は「狗走猪擱来」と彼等を揶揄した。犬が去って豚が来たと言う意味であり、犬(日本)は煩わしいが役に立ち、豚(外省人)は餌を食べるだけで何の役にも立たない!ということである。
 
 二・二八事件は、その象徴と言えよう。
 台湾を旅行する日本人は多いが、二・二八蜂起について知っている人はそれほど多くはいない。台湾を本当に理解する上で、この事件を語らずには済まされない。
二・二八蜂起は、台湾が蒋介石の国民党に支配を受けた一九四七年二月二七日に台北市内で起きた事件から始まる。
 その日の夜、専売局摘発係員六名と警察官四名が、延平路の天馬茶房近くをジープで通りかかると、違法のタバコ売り数名を発見し、逃げ遅れた老婆を逮捕した。老婆は見逃してくれるように懇願したが聞き入れてもらえなかった。老婆は絶望し、警察官からタバコを奪い返そうとしたところ、警官は銃床で老婆の頭を打ち、老婆は血を出してその場に倒れた。怒りで集まった民衆に狼狽した摘発官の一人が銃を乱射し、群衆の一人が即死した。
 翌二八日、群衆は市内をデモ行進したり、アジ演説で警察を非難した。そして、外省人を見かけると捕まえて殴打した。放送局を占拠し、日本帝国海軍の軍艦マーチを流し日本語で全台湾に暴動の起こったことを伝え「台湾人よ立ち上がれ!」と叫んだ。これを聞いた全島の台湾人が各地に集結した。この事件に対し、蒋介石は軍隊を差し向けて弾圧にかかり、数万人の台湾人を殺害したのである。逮捕・投獄・拷問そして処刑された多くは、日本統治下で高等教育を受けた台湾人エリート層だったそうだ。
台湾の戒厳令はこの時発令されたものである。
蒋介石政権に対する台湾人の怒りと不満は、二・二八事件を境に、計り知れない大きなものとなり今日に至っている。

 旅館で話をした三人は、話の中で私たちを同胞・兄弟と呼んだ。日本統治時代台湾の人々にあれほどむごい仕打ちをした日本人の私たちを同胞・兄弟と呼び、日本が去った後同胞としてやってきた人々を呼ぶ言葉が「豚・阿山」である。
おでこのひろい目のくりくりしたおじさんは、時々畳みを拳で叩きながら話した。
 「日本人はいいんだ。今の台湾は全く酷い。メチャクチャです。畜生!あの豚野郎!」
 「私もかつては日本人でした。それが今では、どういう訳か中国人にされてしまって……。全く情けない話です。戦時中、そう、あなた方がまだ生まれる前の話です。私は、大日本帝国陸軍の上等兵として戦争に参加しました。国のために、親兄弟のために戦ったんです。日本の軍隊はすごかったです。私はそのときに日本精神をたたき込まれました。今でも私は日本人です。日本精神です。」
「確かに日本人は、台湾に酷いことをしたんだ。しかし、今よりずっと日本時代の方がましだった。今の政府は何をしているんだ!外省人、知っているでしょう?彼等のやることなすことと言ったら、メチャクチャです。強盗・殺人・暴行何でもやりますよ。それに奴らは金が全てなんだ。彼等の着ている服を見たことありますか?服のポケットが馬鹿に大きいでしょう?あれは金を入れるためですよ。フン……豚野郎め!」
 「奴らのために私たち台湾の人は、今でも苦しい思いをしています。」
 「ところで日本は今どうですか?何しろアジアの大国ですからネー日本は。私たち台湾人は今でも日本に憧れています。特に若い者は、日本やアメリカを夢に見ていますよ。でも台湾から出るのは難しいんだ。金はかかるし、保証金はいるし……。私も死ぬまでに一度日本に行ってみたいです。いいでしょうネー日本は。」
 オデコのおじさんは、酒の入った茶碗を手に取ると、一気に飲み干した。あとの二人は、彼の話にに合わせて、うなずいたり、そうなんだ!とか日本はいいんだ!とあいの手を入れていた。
その二人はまだ三〇歳前後だから日本教育を受けてないらしく、あまり日本語は達者ではなかったが、おじさんの話は聞き取れているようだった。
オデコのおじさんはかなり酔ったらしく、顔と目を真っ赤にしていたが、そのまなざしはとても悲しそうに見えた。
 「あなた方、台湾に来られていろいろな所を見て回ったでしょう?確かに台湾には美しい景色があります。しかし、そこにいる人間は、私たちのような貧しい人間と、金に目の色を変える外省人、あの豚野郎!そして、私たちはいつも日本時代を懐かしみ、日本に憧れています。戦争で日本が負けていなけりゃナー……。いや、今からでも遅くはない!日本がまた台湾に来ればいいんだ!」
 おじさんは大きく息を吸い込んだ。
 「第三次世界大戦を起こして、日本よ台湾に来い!戦争に勝って再び台湾が日本の領土になればいいんだ!そうだろう!」
 オデコのおじさんは、ポンと私の肩を叩いて、その手に力を入れた。私は彼に言う言葉も無く黙って酒を飲んだ。
オデコのおじさんは暫く間をおいて、
 「とまあ、そう言うことにでもならなければ、今の台湾を変えることはできないんだ。第三次世界大戦、そんなものは起こるわけはない。少なくとも日本は戦争を放棄しているんだからナー。」
「でも、私はあなた達に分かって欲しいんだ。台湾にはまだ日本人がいる。第三次世界大戦を起こして日本よ台湾に来い!そう叫び、日本に憧れている人々がいると言うことを……。あなた達も、私のような人間が台湾にいることを皆に伝えてください!私のような馬鹿な男がいると言うことを……。」 タバコの煙と酒のにおいが充満した部屋の中は、しばしの沈黙が続いた。
台湾でこのような話を聞くたびに、世界はまだまだ平和でもなければ明るくもないのだと強く感じる。月に人類が到達するような時代、原子力エネルギーの時代、コンピュータの時代。宇宙から地球を見れば、地球は青く美しい天体であるというが、本当に美しい地球はいつになればやってくるのだろうか?

・鯉魚山から
人気のない暑い昼下がり、私はカメラをぶら下げてよく鯉魚山(リーユィサン)の廟にでかけた。台東車站前の広場を横切って踏切をわたると、広い真っ直ぐな道が上っている。その道を上り詰めたところに、極彩色の廟と塔が建っている。廟と言っても、周りは公園のようになっていて、日陰のベンチで学生が本を読んでいる姿をよく目にする。見晴台から台東の町並みを見渡すと、まさに「很漂亮(ヘンピャゥリャン)」(とても綺麗)である。
 晴れ渡っている日には、緑島(リータオ)(昔は火焼島といわれていた)もくっきりと見える。ビルの少ないこの当時には、加路蘭港(チャルーランカン)という漁港もよく見えた。この港は、私たちが蘭嶼(紅頭嶼)という島へ行った時、船の出た港でもある。
 加路蘭付近の海岸はとても美しく、歯医者のC先生家族とも遊びに出かけたことがあった。そして、今では伝説的になっているが、恋をした高砂族の娘(アミ族)と日本人青年が、悲しく別れた場所でもある。
 その物語は歌になっていて、アミ族の家を訪れたときにはよく聞かされた。歌の題名は誰からも聞いたことがないので、私がつけた。


石山姑娘

 夜の石山加路蘭港(かろらんこう)で
 一人歌うは石山娘
 月の光に露かと見れば
 青いバエンの涙の跡よ

 月影淡く加路蘭港(かろらんこう)で
 なぜに泣くかよ石山娘
 私泣くのは粟つく音に
 思い出したよ恋しい人よ

 月が沈んだ石道山で
 誰を待つかよ石山娘
 私待つのは大阪丸で
遠い内地へ渡った人よ

 夜の石山加路蘭港(かろらんこう)で
 誰を思うか石山娘
 歌に惹かれた恋しい人は
 今に帰るよ大阪丸で


台湾には、日本語を使う台湾人がいる。日本語を話し、日本の歌を歌う高砂族がいる。日本のラジオ放送を唯一の楽しみとしている人がいる。日本に憧れ、日本人に憧れ、日本語を一生懸命学んでいる若者がいる。日本がまだ生きている。中華民国ではなく、台湾がそこにある。
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[2011/10/29 22:29] | 台東
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