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台湾台東に関わって40数年、その間に経験した楽しかったこと面白かったことびっくりしたことなど、現地の状況や日本との比較なども含めて紹介したいと思います。
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海の高砂族ヤミ族 (1967年3月)

・フォルモサ
台湾の呼び名はいくつかあるが、日本人は中華民国とは言わずに台湾と呼ぶ人が多い。
 明の時代(三七〇年前)に、有名な漢学者顔思斉と言う人が、倭寇とともに一時台湾を根拠地にしていたことがあって、その時に初めて台湾という名称が生まれたという。台地に囲まれた港湾という意味なのだろうが、語源については原住民の言葉が起源だという説は確かであるものの定かではない。
 明朝以前には東鯷、三国時代には夷州とも呼ばれていた。
日本では、蓬莱の宝島・蓬莱仙島・高砂の島という呼び方もしていた。 アメリカ人は、台湾をフリー・チャイナとかリパブリック・オブ・チャイナと言うが、これは中共と区別するためや国際的な呼び名として使っているのであって、本来の呼び名には「フォルモサ」(Formosa) というのがある。
一五四四年(種子島にポルトガル人がやってきた頃)、ポルトガル船が台湾沖を通過したときに、乗り込んでいたオランダ人航海士が台湾を見てポルトガル語で「イラー・フォルモサ」(麗しの島)と叫んだことに由来すると言われている。
フォルモサの名称は、今でも欧米諸国で使用されており、特にヨーロッパではタイワンよりもフォルモサが浸透している。
台湾では美麗島とか美麗之島と言うことがあるが、これはフォルモサの中国語訳を当てたものである。
 私は何回か海上から台湾を見たことがあって、とにかく急峻な島だと思ったが、イラー・フォルモサの言葉は出てこなかった。
 ただ一度この言葉が出て来たのは、台湾本島ではなく蘭嶼(紅頭嶼)と言う島に行ったときのことだ。
 台湾には、膨湖諸島を除いて、緑島・亀山島・小琉球など一五の付属島があるが、その中で一番大きな島がこの蘭嶼である。
 私たちが初めて台湾に行った目的は、この蘭嶼に住むヤミ族の文化人類学的な調査と島にいる蝶と昆虫を調べるためだった。

・蘭嶼
バシー海峡の北端に位置する孤島、蘭嶼は面積48k㎡、周囲36kmの古い火山島で、日本ではちょうど三宅島ほどの大きさである。日本時代には、住んでいるヤミ族の頭髪が赤いことから紅頭嶼と呼んだが、戦後島に数多く見られる胡蝶蘭の名をとって蘭嶼と改名された。
そして島には、海の高砂族と呼ばれるヤミ族が二千人ほど暮らしていた。
この島の最高峰である紅頭山(548m)から遙か南方を見やれば、かなた洋上にフィリピン・バタン諸島が見られる。そして彼等ヤミ族は、バタン諸島から渡来したという伝説が伝えられている。
石器時代からこの島に住み、この島を唯一の世界として生きてきたヤミ族は、つい最近まで自分たちが台湾の人間であることも知らない民族であった。しかしながら、戦後キリスト教を始め多くの外来文化が急速に浸透し、少しずつ彼等の内面的・外面的生活様式にも変化が現れてきた。
 蘭嶼での一〇日間は、見るもの聞くものみな珍しいものばかりで、まるでタイムマシンで原始時代にやってきたかのようであった。

蘭嶼へ行くためには、船で太平洋の荒波を超えて行かなければならない。
今では立派な定期船が行き来しているが、私が行った頃には、漁船を少し改造した船を定期船として使用していた。しかしその定期船も、私たちが台湾に着いたちょうどその頃に、蘭嶼の沖合で難破してしまい、縣政府が漁船をチャーターするまでの一週間ほど、私たちは足止めを食らった。
 実はこの一週間を利用して、延平郷紅葉村へブヌン族の調査に出かけたのである。

・オンボロ漁船に乗って
 縣政府はわずか数一〇トンの漁船をチャーターして、一九六七年三月二二日早朝に蘭嶼へ出航することを決めた。
私たちはその日の朝四時起きして準備をし、タクシーを使って加路蘭港へと急いだ。
とにかく、客室など無いおんぼろの漁船だった。荷物を積み込み、甲板の荷物に腰かけた。
 港を出て三〇分もすると加路蘭港はすっかり小さくなり、少し風が出はじめていた。そして、風は次第に強くなり、船長は自分自身に決断を迫っていたようだった。
 その時、私たちの仲間の一人、鈴木先輩が口笛を吹いたのだ。
「口笛を吹くな! ばかやろう! 風がもっと強くなるだろう!」
 船長が怒鳴りつけた。そして次の瞬間、船の舳先が一八〇度回転して加路蘭港の方へ向いた。
船の上で口笛を吹いてはいけないというのは、どこの国にも共通することのようだ。口笛が嵐を呼ぶと言うことである。
私たちは翌二三日の朝、もう一度加路蘭港に来る羽目になった。

 巻き戻したフィルムを見ているような三〇分間が過ぎて、私たちはまたおんぼろ漁船の甲板に腰を下ろしていた。船員用の船室の中は七、八人の乗客ですし詰め状態で、とても私たちが座る余裕など無かった。私は、操舵室前の甲板にしゃがみ込んでいた。すぐ隣のカゴにはニワトリが五、六羽入っていた。
特に船に弱かった私は、酔い止め薬は飲んでいたものの、三〇分もすると気分が悪くなっていた。
出発して一時間、ちょうど台東の町が見えなくなった頃、風が吹き始め雨が降り出した。 おんぼろ船は、しだいに大きく揺れだした。船が木の葉のように揺れるという表現は、まさしくこういう時のために作られたのだと思った。 船が波の間に滑り込むと、四方八方が海の壁になって、海に押しつぶされ飲み込まれそうになる。
 身体を小さく丸め、ビニールをかぶって吹き付ける雨をしのいでいたが、時々覆い被さるようにやってくる白波のしぶきをかぶり、びしょびしょに濡れた。
隣のカゴの中にいるニワトリも、船酔いでもしたのか気分が悪そうだった。目を閉じて静かにしているかと思うと、時々狂ったように立ち上がり目をむきだして「コオーッ、コッ、コッ」と鳴いてはまた静かになる。そんなことをずっと繰り返していた。
ニワトリでも一人前に船酔いになるのかと可笑しかったが、自分も気分が悪くて笑うことすらできなかった。
 汽車やバスなら途中下車もできるが、飛行機と船は途中下機や途中下船できない。
加路蘭を出てから蘭嶼につくまでの九時間、船酔いで死んだ人はいないのだと自分に言い聞かせながら、経験したことのない恐怖と苦しみを味わった。

・蘭嶼到着
「到蘭嶼了!」
乗客の一人が大声で叫んだ! 蘭嶼についた!
雨上がりの黒雲の割れ目からほんの少し顔を覗かせた太陽は、夕方とは思えないほどの強い日差しを蘭嶼の山並みに投げかけ、山の緑をいっそう美しく輝かせていた。海の青さと、海面の煌めき。
 「イラー・フォルモサ」(麗しの島)
 思わずこの言葉が私の口から飛び出した。

私たちが辿り着いたのは島の北西のはずれだったため、船はしばらくのあいだ島の西に沿って南に進んだ。そこから蘭嶼の表玄関であるイモルル社(紅頭村)まで、美しい島と穏やかな海を楽しんだ。ときどき海を滑るようにして飛ぶトビウオの身体が、夕日にキラキラと赤く白く光った。
イモルルは蘭嶼の表玄関と言っても、きちんとした船着き場があるわけではない。船は浜から五、六十メートル沖で止まり、錨が投げ込まれた。
 海岸には月に一度の船を見るために、子供から大人まで村中のものが集まり、海岸の石の上に座ってじっとこちらを窺っていた。 フンドシ一つの男達の身体は、真っ黒に日焼けして、夕日に黒光りしていた。
 サンパンと呼ばれる小舟で上陸すると、浜にいたヤミがどっと私たちと荷物の周りに集まってきた。ヤミ族の男たちは身体が小さく痩せており、真っ黒な身体に白いフンドシを着けて、頭は通称ヤミカットと呼ばれるおかっぱ頭である。顔つきは台湾本土の高砂族と言うよりは、むしろフィリピンやマレー・ミクロネシア系的な感じで、驚くほどしわが多かった。
 私たちは台東縣政府のご厚意で、イモルルにある縣政府建設課が建設中の宿舎一棟を貸して貰うことができた。その宿舎は、海岸から四、五分登った小高いところにあった。ヤミ族のために作られている煉瓦と鉄筋造りのその宿舎は、内装以外はできあがっていた。
私たちが荷物を担ごうとすると、周りにいたヤミの男達は、自分達が運ぶから手ぶらでいけという仕草をする。状況がよく分からないうちに、ヤミの男達は我先にと荷物を担いで宿舎に向かった。
小柄なヤミの男達が五十キロ以上もあるキスリングを担いで、ふらふらしながら海岸の道を登っていくのだから気が気ではない。荷物の中には、カメラやテープレコーダーやガラス製品も入っている。彼等がただ単に私たちを歓迎しているにしてはどうも腑に落ちない。

・ヤミ族と赤い煙草
 宿舎に着いて分かったのだが、彼等の目的は、荷物を運び終わったときにもらえるであろう、たった一本のタバコだったのである。 縣政府の人から聞いていて、私たちは台湾で一番安い赤い包みのタバコ「吉祥」を準備していた。
 「何をするにもこのタバコが蘭嶼では一番役に立ちますよ!」 そう言われていた。

 ヤミの男達は荷物を運び終わって、宿舎の前にしゃがみ込み、じっとして帰る気配はない。あたりはもう薄暗くなっている。
 この時、縣政府の人の言葉を思い出して、吉祥を荷物の中からとりだした。
ヤミの男達に一本一本タバコを渡すと、とても喜んで何人かは帰って行った。

 ヤミ族はもともとお酒もタバコもやらないまじめな民族であった。しかし、第二次大戦末期にこの島に分駐していた日本兵と、戦後この島に寄港したアメリカ船の船員からタバコを吸うことを教えられた。それからというもの、男も女もタバコ好きになってしまった。
 自給自足生活を営むヤミ族にとってお金はまったく役に立たなかったが、最近ではタバコを買うことのできるお金に興味を持つ者も出てきた。島にやってくる外来者から何らかの形で手に入れたお金は、島に数件しかないお店で、すべてタバコ代に化けてしまう。お金が手にできないヤミ族は、今回のように島にやってきた人の荷物を運んだり小間使いなどをして、必死の思いでタバコを貰うのである。
荷物を運んでは一本。道を教えては一本。「コーカイ」(ヤミ語でコンニチハという挨拶言葉)と言っては一本。何をするにもタバコを要求してくるのには少々閉口した。

・東上等兵との出会い
話が少し前後するが、宿舎に向かう途中で、一人のヤミの男に出会った。どこかで見たことのある顔である。
「センセイガタ、ドコカラキマシタカ?」  親しげに握手を求めてきた。
日本の太陽という雑誌に蘭嶼の名物男として写真入りで紹介された「東上等兵」であった。
日本語の上手な台湾人や高砂族が多い中で、彼の日本語は決して上手くはなかったが、蘭嶼の中では一番の日本語の使い手であり、私たちの蘭嶼滞在中の最も信頼の置ける通訳になった。
自称東上等兵は四十四歳。本名をシタラックと言った。
日本統治時代に島の蕃童教育所(高砂族の児童対象の学校)で少しの日本語教育を受け、その後太平洋戦争の末期に兵隊に行って、今程度の日本語が話せるようになったのだという。
 兵隊に行った時には、台中市郊外にあったミヤマ部隊という高砂族の義勇隊の中で訓練を受けたそうだが、実際には二等兵だったようである。
東上等兵は、そのまま私たちの宿舎まで着いてきた。荷物を運んだヤミの男達にタバコを振る舞ったときも、ちゃっかり一本貰っていた。
 私たちが荷物の整理をしている間、上等兵と数人のヤミの男は一言も口をきかず黙って見ていた。
荷物をあらかた整理して引き続き食事の準備に取りかかった。彼等は入り口付近の土間に座り込んだまま、私たちの行動を食い入るように見ていた。日本から持ってきたインスタントラーメンが今日の夕食である。
「上等兵!私たちはこれから食事をするから帰りなさい!」と告げた。
 「マタヨルキマス!」と言って、一緒にいたヤミの男達を引き連れて、隣村のイラタイ(漁人村)へと帰って行った。

 ふたたび東上等兵が、どこで見つけたのか古びた地下足袋を履いて、シャコ貝をお土産に持って宿舎にやって来たのは、食事を終えて一服しているときだった。
 「東上等兵タダイママイリマシタ!」
 気迫に満ちた声で、入り口で敬礼をして入ってきた。
「上等兵!それは何だ!」
 シャコ貝をさして、できるだけ威厳のある口調で尋ねた。彼の軍隊口調の言葉を聞いていると、どうもこちらも軍隊口調になってしまう。それに、上等兵にとっては、軍隊口調のほうが慣れているように思えた。
「センセイ、コレハ貝デスネ。海ニモグッテトリマスネ。トテモオイシイダロ」
シャコ貝を土間に置いて、招きに応じて部屋に上がってきた。
 薄暗いローソクの光の中で、話は尽きなかった。
 
 上等兵は、過去蘭嶼に来たことのある日本人の名前と性格をはっきり記憶していて、その話だけでかなりの時間が過ぎた。
なかでも、生物学者で人類学者でもあった鹿野忠雄氏(三十九歳に調査地ボルネオで消息を絶つ)の話になると、いちだんと熱っぽくなった。鹿野忠雄氏は、高砂族や蘭嶼研究についての権威であり、ヤミ族の信望も厚かったようである。
 鹿野忠雄氏が初めて蘭嶼に来て驚いた話というのがある。自分の名前を「カノ」と紹介すると、その後すぐに彼らは「シカノ」さんと呼んだそうだ。どうして日本語もろくに知らない彼らが「鹿」を「シカ」と読めるのだろうと不思議だったそうだ。後から分かって大笑いしたそうだが、彼らヤミ族は人の名前の前には必ず「シ」と言う接頭語を付けるのである。どんなヤミの名前にも必ず頭に「シ」が付いている

・教育勅語
 テープレコーダーが持ち出された。私が母に頼み込んで、東京中野駅前の丸井で分割月賦で買って貰ったものだった。ソニーから家庭用に発売されたソニオマチックと言う商品で、オープンリール方式だが当時としては携帯用の小型で最新式のものである
上等兵の声を吹き込んで聞かせたが、初めは信じない様子である。
 「これは!上等兵の声なの!」
 何度も言い返して納得させた。
自分の声なのだと悟った時の彼の驚きようと言ったらなかった。なにしろ、声を再生する機械そのものの存在すら知らなかったのだから無理もない。そのあと、自分の声が聞きたくて、何回も何回も再生を要求された。
自分の声が聞こえると、テープレコーダーに耳を近づけて……自分の声がとぎれたときには、「ハー」とか「フム」とため息のような声を漏らし、終わると黙って何かを考えているようだった。

「上等兵!何か歌を歌ってくれないか?」 「コレニイレテクレルダロ?」
 上等兵はテープレコーダーを指さした。
私たちは、ヤミ語の歌を歌う上等兵を想像していたが、テープが回り出して彼の口から飛び出した歌は、なんと日本の歌だった。
「ヤマダノナーカノ、イッポンアシノ、カカシー……」
「山田のかかし」が終わると、息もつかずに「サーラーバラバウルヨ、マタクルマーデーハ……」 と「ラバウル小唄」を歌った。彼は歌っているときは常に直立不動の姿勢で、その目はしっかりと私たちを見ていた。
彼の黒くしわだらけの顔は、大きく口を開けるといっそうしわが寄ってクシャクシャになり、子供のようなあどけなさと可愛さが感じられた。
上等兵がとても楽しそうに歌っているのを聴いて、いつの間にか私たちもラバウル小唄を歌いだしていた。
地の果てのような異国の島に来ても、こうして日本の歌を一緒に歌える人々がいる。来て良かった! 目頭が熱くなるのを感じた。

上等兵は最後に、教育勅語の暗唱をした。きっと、蕃童教育所やミヤマ部隊で、必死になって暗記したのだろう。
「チンオモウニ、ワガコウソコウソウ、クニヲハジムルコトコウエンニ、トクヲタツルコトシンコウナリ……」
戦後っ子の私たちには、教育勅語の暗唱はもちろん、内容も理解できない。
今は中華民国の人であるが、その昔日本人とともに日本のために銃を持って敵と戦った「東上等兵」と言う人が実際に私たちの目の前にいて、日本の教育勅語を暗唱している。
私の頭の中に、国家・人種・民族・言語・人権・植民地・平和・戦争・文化・生活などの言葉が次から次に湧き上がってきて、気が遠くなりそうだった。
確かに彼は今、中国式の名前を持った中華民国の国民である。しかし、実際には蘭嶼という小島の中で、台湾本島とは何の関係もないかのようにヤミ族の一人として生活を送っている。事実上、彼等に国籍はない。確かなことは、彼等はヤミ族であると言うことだけだ。
「………ギョメイギョジ」
東上等兵は教育勅語の暗唱を終えると、安心したかのように一呼吸して、紅茶をすすった。
 夜も更けて上等兵が帰るとき、懐中電灯を貸してあげた。彼は懐中電灯が気に入ったようで、点けたり消したりして部屋の中を照らした。
「東上等兵、タダイマカエリマス!」
そう言い残して、隣村に帰って行った。
外は、月の光に輝く遙か水平線の彼方まで、星空が広がっていた。

・蘭嶼の部落を訪ねて
 日本でいう村役場を台湾では郷公所という。 蘭嶼にはこのイモルルに郷公所が一つあるだけである。
田舎の学校の職員室を思わせるような郷公所の中には蘭嶼の大きな地図が貼ってあり、部落の位置と名称、保健所や警察の位置、さらには学校の場所が書き込まれていた。
蘭嶼には全部で六つの部落がある。
蘭嶼の中心となっている「イモルル」(紅頭村)、イモルルから西へ一キロ行くと、東上等兵が住む二番目に大きな「イラタイ」(漁人村)がある。
イラタイからさらに北西に六キロ行くと、冗談がとても上手な雑貨屋のおじさんがいる「ヤユー」(椰油村)。ヤユーから海岸の道をどんどん行くと、奇岩群を通り「イララライ」(朗島村)に着く。イララライの先にもう道はない。
イモルル側の海が荒れている時は、船は島の反対側の「イワギヌ」(野銀村)の沖に着く。
戦時中、アメリカの爆撃機が軍艦と間違えて実際に爆弾を落としたという軍艦岩は、イワギヌの先「イラノミルク」(東清村)の近くにある。
郷公所で資料調査を済ませ、東上等兵の住むイラタイへ向かった。途中、村境のイモルル川(紅頭溪)を渡ったところで、ヤミ族の少女に出会った。早速覚えたばかりのヤミ語で「コーカイ!」と挨拶したが、少女は恥ずかしそうに小声で「コーカイ」と言って、小走りにイモルルの方向に去ってしまった。私は、初めて使ったヤミの言葉がとりあえず通じたことに満足した。
イラタイはイモルルと並んで人の出入りの多い部落である。台湾本島からやってくる文化も、イモルルとこのイラタイから蘭嶼の全部落へ発信される。縣政府がヤミ族の生活と衛生状態を考えて現在建設している煉瓦と鉄筋造りの家屋も、先ずイモルルとイラタイで建設が始まっている。
一歩部落の中へはいると、そこはまるで迷路のようだ。石垣に囲まれたヤミ族特有の竪穴式住居は地下住居のようになっていて、石垣の上があぜ道のように一般道からつながっている。竪穴式住居と言っても、地面を掘って家を建てたわけではなく、台風を避けるために高く築いた石垣の中に家がある。住居に入るには、石垣から十数段の石段を下りていく。屋根と石垣の上のあぜ道が同じくらいの高さになっている。
 綺麗に南向きに並んでいる家の屋根はオニガヤで葺いてあり、茶褐色の屋根は裏手の山の緑に映えて美しい。
石段を下りきるとちょっとした庭があり、木を植えている家もある。
 家の南側には、幅五〇センチほどの廊下があり、その片隅には薪の燃えかすと古びた鍋が置いてあった。
 廊下の中央付近の壁には五〇センチ四方の穴が空いていて、これが部屋に続く唯一の出入り口となっている。その出入り口から奥を覗いたのだが、とにかく真っ暗で何も見えない。部屋には窓が一つもないのだ。
 懐中電灯で照らしてみると、壁や天井に無数のヤギの角がススに汚れて真っ黒になって掛かっていた。家の守り神らしい。
 照明器具がないのだから、窓一つ無い真っ暗な部屋ではさぞかし不自由な生活だろうと思ったが、彼等が言うには、
「何も真っ暗な部屋で仕事をするわけでも無し、仕事は明るい時に外ですればいいのだから……。外が暗くなれば、ここで寝るだけだ」
まさにその通りである。私たち文明人の生活の方がおかしいのかもしれない…。
 部屋は三段になっていて、奥の一番高いところに高齢者が寝るというように、年の順に寝るそうだ。
 彼等ヤミ族に言わせると、家の住み心地は満点だそうだ。しかし、ヤミの家に寝たことのある郷公所の役人は、南京虫やらダニの巣のようで、あんな汚らしい不潔なところはまっぴらだという。
住み心地満点の彼等の家も、夏の蒸し暑い夜はやはり寝苦しいらしい。夏場はもっぱら「涼み台」という小さな高床式の小屋で寝るそうである。涼み台は、そのほかにも食事や井戸端会議によく使われる。

 ヤミの男は通常フンドシ一つであり、女は腰巻きと胸当てだけである。大人ほど肌の色が黒くない子供達は、皆真っ裸で走り回っている。日本人とほとんど同じような色白の赤子もいる。彼等の肌が黒いのと髪の毛が赤いのは、どうやら日焼けのせいらしい。
 部落内を歩いていると、私たちに気づいた大人のヤミは「コーカイ」と言って近づいてくる。私たちもすぐに「コーカイ」と答える。
そして、次に彼等が必ずこう聞く。
 「タバコアルカ?」
 写真を写させて貰ったときも、写し終わると手を出して「タバコ!」と言ってくる。
 そんなわけで、私たちは出かけるときにはいつもポケットに赤いタバコを入れていた。しかし、これはイモルルとイラタイに限ったことで、イモルルからかなり離れたイララライやヤユーでは無かった。文明と金(タバコ)が、密接な関係を持っている証か?

・ヤミ族とキリスト教
 その夜、ヤミ族の信仰を調査していた津幡さんと私は、イモルルにある長老教会(プロテスタント)を訪ねた。一九四八年に蘭嶼に長老教会ができ、一九五四年には天主教(カソリック)も入ってきた。以後二十数年、キリスト教はヤミ族の精神生活に大きな影響を与えてきた。そして現在も影響を与え続けている。
 私たちが教会の中にはいると、ちょうどミサの最中だった。ローソクが置かれたテーブルを囲んで、十人足らずのアミの男達が賛美歌を歌っていた。
フンドシ姿の男達が歌う賛美歌は、小さな教会の中に澄んで美しく響き渡っていた。
賛美歌が終わると、牧師が蘭嶼にまつわるいろいろなことを話してくれた。
蘭嶼には現在、各部落に長老教と天主教の教会がそれぞれ一つずつあり、信徒はそれぞれ三百人余りいるそうだが、牧師も完全に把握できていないという。
 キリスト教が蘭嶼に入ってきた当時は、スイス人やカナダ人の宣教師が説教をしていたそうだが、最近では、台湾人やその当時助手だったヤミ族の青年が、牧師として伝道に励んでいる。
キリスト教がヤミ族に与えた影響は、計り知れないものがある。彼らヤミ族が伝統的トビウオ漁に使うチヌリクランと呼ばれる船の、船首に刻まれた十字架がそれを物語っている。
しかし、蘭嶼で二十数年の歴史を持つ長老教会も、そして後から入ってきた天主教会も、まだまだ苦労が絶えないようだ。
昔からこの島に伝わる原始信仰やタブーは、未だに強い支配力を持っている。キリスト教に入信している者の多くは教会から救済物資がもらえるからで、中には天主教と長老教の両方に籍を置く者もいる。

ヤミ族はとても穏やかで平和な民族であると同時に、とても迷信深い。
ヤミ族が最も恐れているのは、「アニト」と呼ばれる死者の霊である。人が死ぬとアニトとなり、野原や家に住み着き人々に祟るというのだ。
部落に死人が出ると、真っ昼間に隣の部落へ行くにも、籐で作った兜をかぶり、椰子で作った鎧を着け、肩にはナイフを提げ、長い槍を持って完全武装する。まるで戦いに出かけるような出で立ちであるが、アニトに出会うのを恐れてのことである。
キリスト教は、このような恐怖から彼らを救おうと努力してきたが、少数の若者を除いて、まだまだアニトの恐怖から逃れられないヤミが多くいる。

・ヤミ族の戦争
ある日、東海岸にあるイワギヌ部落(野銀村)を訪れた。
東海岸に出るには、紅頭山から南東に伸びる尾根を超えなければならない。トラック一台が通れるほどの道を上り峠にさしかかると、すばらしい眺めが眼下に広がる。
小さくなったイモルル部落の石垣のあぜ道が、網の目のような幾何学的な模様を作り出している。かやぶき屋根の茶色とタロイモ畑の緑が、真っ青な海と海岸に打ち寄せる白波の美しさを更に際だたせていた。
道の両側には、木生シダ(ヒカゲヘゴ)の群落が続いていた。ときおり、オオゴマダラという大型の蝶が、ゆったりとそしてフワフワと、優雅に舞うように飛び交っている。
峠を下ってすぐ、眼下にイワギヌの部落が現れた時、道の行く手に放し飼いのヤギの群れが立ちはだかった。
日本のヤギと違い、茶色と白のブチ、そのブチに更に黒が入ったものなど、色とりどりのヤギである。
ヤギはヤミ族の最も重要な財産の一つで、どういう訳か所有権は女性にあるという。そしてこのヤギこそが、平和なヤミ族の唯一の争いの原因となるのだ。
彼らはヤギを常に放し飼いにしている。お祭りの時などにヤギを殺して食べるが、放し飼いのヤギを捕まえるのは結構大変らしい。 時々間違ってよその部落のヤギを捕まえてしまうことがある。そんな時そのまま食べてしまって、それがよその部落の者に見つかったりすると厄介なことになる。部落の長同士の話し合いで解決しようとするが、盗んだ盗まないで決着がつかないと、いよいよ戦争が始まる。
 戦場はもっぱら海岸になっていて、戦いに関係している親戚縁者が集まるが、時には部落総出になることもある。
そして、その海岸で始められる戦争は、実に石投げ合戦である。
一番先頭になって、盾を持った年配者が行く。年寄りは早く死んでもいいだろうという作戦か? その後方から若者が石を投げる。そして、女子供は食事の用意と石運びである。 この石投げ合戦はすぐに勝負がついてしまうこともあるが、二、三日続くこともあるそうだ。勝敗は、理由はともかく先に逃げた方が負けとなり、謝罪には瑪瑙玉、銀の腕輪、ヤギなどを要求される。
何となく子供達のやる戦争ごっこのように思えたが、実際にイララライで石投げ合戦に参加して負傷した人を見て、凄まじいものなのだと実感した。その人は運悪く石が顔面に当たって、顔の右半分が血だらけでクシャクシャになっていた。

・トビウオ漁
イワギヌは、イモルルに比べて落ち着きのある静かな部落だった。そして、溶岩で作られた海岸の所々にある真っ白な砂浜の美しさに感激した。
海岸では、ヤミの少年が手製の水中鉄砲で魚を捕っていた。
私たちが蘭嶼を訪れたのは三月末であったから、ちょうどトビウオ漁の時期だった。この時期には、海に潜って魚を捕ったり、水中鉄砲で魚を捕ることはヤミのしきたりで禁じられている。しかし、小型の水中鉄砲を持って、火山岩礫や珊瑚礁の磯で小魚を捕っている男達をよくみかけた。どうやら小型の水中鉄砲と小魚は黙認されているらしい。
少年に近づいて、水中鉄砲を指さした。
「パチンコ!」
 少年は真っ白な歯を見せて、即座に答えた。
 まさしく日本語である。
彼らヤミ族は、このパチンコを十数年前から使っているという。この水中鉄砲は、もとは沖縄の漁夫がアミ族に教えたもので、アミ族を通して戦後ヤミ族に伝わって来たそうだ。

海は美しく、珊瑚礁の間を鮮やかな色彩の熱帯魚が群れ泳いでいる。日本の海では見られない光景である。
遥か遠くには、小蘭嶼がくっきりと見える。蘭嶼から六キロ離れた無人島で、近海はトビウオ漁の最高の漁場である。
彼らヤミ族の生活のリズムは、海におけるトビウオ漁と、水田でのタロイモ(ミズイモとも言う)耕作を中心に展開する。
主食はもちろんこのタロイモとトビウオで、女はタロイモ耕作を、男はトビウオ漁を受け持つ。
その中でも、トビウオ漁は彼らヤミ族の一年中で一番重要な仕事でありお祭りでもある。 陰暦の三月、四月になると、黒潮に乗ってトビウオがやってくる。いつもはすることもなく暇をもてあましているヤミの男達も、この時期になると活気づき男と呼ぶにふさわしくなる。
 彼らは、船組合という血縁者同士の組織を作っていて、トビウオ漁は必ずこの船組合単位で行なわれる。
 トビウオ漁に使われるのはチヌリクランと呼ばれる一〇人乗りの船で、船組合の共同所有物である。チヌリクランの船縁は見事に彫刻されていて、さらに赤・白・黒の三色で彩色されている。
船首には、蘭嶼と小蘭嶼を創造したと言われている超人ママオグの像が彫られ、さらに十字架が彫られている船も多い。
チヌリクランは丸木船ではなく、高度な技術で木を組み立てて作った船で、モルッカ諸島やソロモン諸島のものに似ているという。 他にチヌリクランを小さくしたタタラと呼ばれる個人所有の船もあるが、これは個人あるいは二、三人での普通の漁に使われる。 

四月上旬の月のない真っ暗な夜に、無言で行われるトビウオ漁は神秘的でさえある。口をきくと、波風が出てきてトビウオが逃げるという。
 漁場に着くと、船の隅に松明を灯す。そして、煌々と輝く松明の下に集まってくるトビウオを、直径五〇㎝ほどの丸網ですくい上げるのだ。こんな原始的な漁法でも、彼らが生活して行くには充分足りるのだという。このトビウオを網ですくう漁法は、日本の八丈島などにも細々と残っている。
 捕れたトビウオは、その場ですぐに目玉を食べてしまう。目を付けておくと、海に逃げてしまうからだという。トビウオ漁を終えたヤミの男達は、トビウオの目で腹一杯だそうだ。
捕れたトビウオは、組合が平等に分配するという原始共産制である。また、捕れたトビウオは全てその期間中に食べ切ってしまわなければならないという決まりもあるらしい。
 ヤミ族は料理らしい料理をすることがないので、トビウオもただ海水で煮るか、いったん干したものを海水で煮て食べるという簡単なものである。
トビウオのことをヤミ族はアリバンバンと呼ぶが、アミ語でアリバンバンは蝶々のことを指す。アリバンバンは確かに蝶のように飛ぶ魚である。

私たちが峠を越えて再びイモルルに戻ったのは、ちょうど日が沈む頃だった。紅色に染まった雲の間からは、後光のように太陽の光がもれて海に反射していた。やがて海中に日が沈むと、緑の山や突き出た岩々は赤い空に真っ黒なシルエットとなった。

・ヤミ族の名前
 その夜、食後の紅茶を飲んでいるところに、前イモルル村長のシャマンカポガン氏がやって来た。彼はさもインテリであることを強調するかのように、伸ばした髪をきれいに横分けしていた。事実彼は、アミ語はもちろんのこと日本語・台湾語・中国語・英語に精通している、島随一の知識人である。
彼は以前シマノカスと言う名前だった。ところが、彼に息子ができてカポガンという名前を付けてからは、シャマンカポガン(カポガンの父)となった。
このようにヤミ族では、長男が生まれるとその父親などの名前が変わるという習慣がある。もし、カポガンに長男が生まれて「タロウ」と名を付けたとすると、現シャマンカポガン氏はシャプンタロウ(タロウのおじいさん)に変わってしまうのである。
シャマンカポガンは、ヤミについて知る限りのことを私たちに話してくれた。彼の話し方は、その華奢な身体に反してどことなく威厳が漂っていた。

ヤミ族の祖先は、世界三大難所と言われるバシー海峡を渡り、バタン諸島から船でこの蘭嶼にやってきたというのが、当時の学界での定説となっていた。
しかし彼の話によると、昔超人ママオグという神が最初に小蘭嶼を造り、ついでこの蘭嶼を造ったという。そして、ママオグは石から男を作り竹から女を作ったそうだ。石とヤミ族との関係は深い。竪穴式住居を台風から守っている石垣、涼み台の近くに置いてある「もたれ石」と呼ばれるヤミ式座椅子。とにかく蘭嶼は石だらけの環境であるから、祖先が石から生まれたという伝説ももっともな話である。
シャマンカポガンは、冷めた紅茶をすすってまた話し出した。
 外は今日も満天の星空だった。

・民芸品の購入
 ヤユーは蘭嶼で最も人口の多い部落である。民芸品を入手するには、ヤユーが一番だと郷公所の人に聞いていたので、さっそく行ってみることにした。
 海岸沿いの草むらでは、ジージーとクサゼミが騒がしかった。また、頭上高くに蘭嶼特産種であるコウトウキシタアゲハという巨大な蝶が飛んでいた。 
ヤユー部落の入り口に、派出所と小学校が並んでいた。小学校は各部落に一つずつあり、北京語で授業を行っている。しかし、台湾本島に比べると問題にならないほどヤミ族の生徒の能力は劣っているという。ヤミ族の中でとても頭が良いと言われる生徒が台東の中学に行っても、学校の勉強に追いつけないことと、環境の違いに耐えられなくなって、ノイローゼ気味になって逃げ帰るように蘭嶼に戻ってくるそうだ。
ほかにも、就職で台東へ行った若者が、ものの一ヶ月足らずで帰ってきてしまうというケースも多いという。
私たちは民芸品を手に入れるために、ヤユー部落の家々を一軒一軒訪ね回った。
 椰子で作った壺「ヴァガ」、椰子で作ったスプーン「イルス」、土器・土偶・船の模型、パリパリゴンと呼ばれる草の繊維で編んだチョッキ「タリリ」など、初めて見る物ばかりで興奮した。とにかく目についた物は全部欲しかったが、お金もタバコもそれほど余裕がなかった。
 「これはいくらで売るか?」
 「アメリカ人は、XX元で買った!」
 とんでもない値段が返ってくる。
私たちより少し前にアメリカ人の研究者がやって来て、彼らの民芸品を片っ端から高値で買いあげていったそうで、それ以来相場がかなり上がってしまったようだ。貧乏学生にとっては、運の悪い時期にやってきたものである。米ドル一ドルが三六〇円の時代だから、アメリカ人にはかなわない。「アメリカ人のバカヤロウ!」心で怒鳴った。
結局、特に欲しかったチヌリクランの模型、椰子で作った壺とスプーン、土偶を五個買うことにした。

 あるヤミの家の前を通ると、庭にフンドシが干してあった。新品同様でとてもきれいな織りだったので、どうしても欲しくなり、家の戸口にいた男に売ってくれるように頼んだ。するとその男は「奥さんに聞いてくる」と言って家の中に入っていった。
 めでたく奥さんの許しが出て、そのフンドシを一五元(一三五円)と赤いタバコ一箱で譲ってもらった。
 どうやらフンドシの所有権は、フンドシを作った奥さんにあるらしい。男には使用権だけしかないのだろうか?

・ヤミ族の男と女
 もともとヤミ族は女性が少ない。
したがって、女性の権限が増大して、ほとんどの権利は女性側にある。
一番良い例が結婚と離婚である。結婚は、ほとんど例外なく女性が決定権を持つ。
男性は気に入った女性に瑪瑙玉あるいはそれに代わる品物を差し出す。女性がそれを受け取れば結婚成立であるし、受け取らなければ男性は諦めるしかない。
 結婚して必ずうまくいくという保証はないし、一緒に生活するのはもういやだというケースはどこの国にでもある。
ヤミ族の場合は、一生独身で過ごす男も数多くいるから、結婚できる男はかなり幸せである。だから、男の方から離婚したいというケースはまず皆無と言ってもよい。すなわち、離婚を迫るのは常に女性の方であり、離婚の原因は常に男性側にあるとされる。
離婚は、結婚する時にもらった品物を男性に返せばそれで成立する。このことで、女性の結婚詐欺を防止しているのだろう。大変合理的にできていると思う。離婚問題で頭を抱えている文明国も、ヤミ式を参考にすると良いかもしれない。

 食べ物に関しても、女性はかなり有利である。魚には「女の魚」と「男の魚」の区別があるという。女の魚は美味しくて大きく、男の魚は小さくて小骨が多かったりする。男は決して女の魚を食べてはいけないし、その逆もいけない。このことも一つのタブーとなっている。女性は子供を産み育て、毎日水田に行ってタロイモ耕作をし、ほとんどの家事をまかなうが、男性はトビウオ漁の時期にしか仕事もなく、毎日涼み台でぼーっとして過ごすことが多い。男性よりエネルギーを使う女性は、普段から栄養をとる必要があるということだろうか…。
 もちろん、男女ともに食べられる魚も多くあり、その代表がトビウオである。

 しかし、鹿野忠雄の調査記録から見ると、男の魚(女が食べてはいけない魚、ラグト)と男と女の魚(男女とのみ食べられる魚、オユル)が有るとされている。

・ニワトリの卵
 ヤミ族にはとにかくタブーが多い。最近、タブーを気にしない若者も増えてきているらしいが、依然として彼らの生活の中に根強く残っている。
 サメ・ウナギなど、鱗のない魚は食べてはいけない。カエルを食べてはいけない。ニワトリの卵を食べてはいけない。ニワトリの卵を食べると子供ができなくなると言う。
 ある日、一人のヤミの男がニワトリの卵を売りに来た。私はその玉子三個をタバコ三本とギナギナ(ヤミ語で交換の意味)した。ここ数日卵を食べていなかったので、皆とても喜んだ。
ちょうど昼食にインスタントラーメンを作っていたところだったので、さっそくラーメンに入れて食べることにした。卵を割ってラーメンの中に落とした。その時! 
 卵の中から、どす黒く緑色の液体が、ラーメンの上にドロドロと落ちた。その瞬間、脳ミソが腐ってしまうかのようなものすごい臭気が部屋の中に漂い、全員部屋から脱出した。
どうやら、二〇日間ニワトリが温めてもヒヨコに孵らなかった卵を売りつけられたようだ。ヤミ族のタブーを破った罰が当たったかと思った。
このことを郷公所の役人に話すと、
「卵をヤミから買ってはダメですよ。必要な時には言って下さい」
 そう言いながら、家の奥から卵を五個ほど持ってきてくれた。

次の日の昼もインスタントラーメンを食べた。もちろん、昨日もらった正真正銘の卵を落として、かき玉ラーメンを作った。
 宿舎の入り口には相変わらずヤミが数人しゃがみ込んでいる。とにかく、私たちが宿舎にいる時には必ず何人かのヤミがやってきて、黙ってしゃがみ込んで私たちのやることを見ているのである。目的は、私たちの吸い残したタバコのかすを拾って吸うためである。
彼らは土間にしゃがみ込んで、私たちの食事風景を黙って見ていた。
昨日だまされて(ヤミはだますつもりはなかったのかも知れないが)ちょっとばかり腹が立っていた私は、ヤミに卵を食べさせてみようと思った。
数人いるヤミの男に、
「ラーメンを食べないか?」と誘うと、全員が待ってましたとばかりに食べ出した。
 ラーメンは部屋の中で作ったので、入り口にいたヤミ達には卵を入れたことは知られてない。さらに、かき混ぜてしまってかき玉ラーメンになっているから、卵かどうか見た目には分からないし、彼等は卵を食べたことがないので卵の味も知らないのだ。
 ところが、その中の一人が粉々になった卵を指して「コレハナンダ?」と聞く。
「何でもない。おいしいだろ?」とごまかした。
運の悪いことに、そこへ東上等兵がやってきた。彼らの食べているラーメンを見て、しきりにヤミ語で怒鳴っている。とたんに、ヤミの男達はゲエゲエと食べたばかりのラーメンを吐き出した。上等兵はそれを見て、
 「バカナヤツダ!」
 また怒鳴りつけた。
 なんだか申し訳ないことをしてしまったと思いながらも、本当に彼等はタブーを守っているのだと感心した。

・カエル
夜になって、郷公所の役人がシナカットというヤミの青年を連れてやってきた。
暫く話をしている内に、ヤミ族のタブーの話からカエルの話になった。
ヤミには、カエルを食べてはならないというタブーがある。だから、蘭嶼のカエルは増える一方であった。郷公所の役人や学校の先生などの台湾人は、好んでカエルを食べているが、いくら食べても減らない。なかには、蘭嶼のカエルを捕まえて、本島に売っている台湾人もいる。本島ではカエル料理は高級料理の一つである。
 カエルを食べたことがないと私がいうと、 「カエルはそれはおいしいですよ。沢山いるからシナカットと一緒に捕りに行ってきたら?」と言うことで話が決まり、早速シナカットと一緒に捕りに出かけた。
 シナカットは背が高く整った顔立ちで、ヤミとは思えないほどの美少年であった。
タロイモが植えてある水田に来ると、至る所でカエルが鳴いている。さっそく懐中電灯でカエルの鳴いているあたりを照らす。一瞬、カエルは光に驚いてじっとして動かなくなる。その隙に手で押さえ込むのであるが、簡単なようでなかなかうまくいかない。ちょっとのところで、逃げられてしまう。
 シナカットは捕り慣れているせいか、さすがに上手い。次から次へと袋の中に入れていく。私が何匹も捕まえていないのに、彼はもう三〇匹ほど捕まえたようだ。さらに、彼は格闘の末一メートルほどもあるオオウナギを三匹捕まえた。
 帰ってさっそく料理に取りかかった。鈴木さんの意見で、オオウナギは蒲焼きにすることにした。シナカットが言うには、カエルはスープにするのが一番簡単でしかも美味しいそうだ。
 ウナギは馬鹿でかいばかりで、決して美味しいものではなかったが、カエルが美味しいのには驚いた。柔らかくて品のある鶏肉のようで、インスタントラーメンばかり食べていた私たちには、それこそ大ご馳走である。みるみるうちに、テーブルの上はカエルの骨が重なって山となった。
蘭嶼にいるカエルは、日本で言うダルマガエルの近縁種のようだ。関東地方でトノサマガエルと言っているカエルのほとんどは、カントウダルマガエルである。東京郊外で育った私も、トノサマガエルと称したカエルはよく捕まえたことがあるが、食べたことはない。
きっと、日本のダルマガエルも美味しいのではないかと思った。
 この日カエルを食べてからというもの、カエルの味の虜になったように、一日の内一食はカエルを食べないと気が済まなくなってしまった。
調査に忙しかった私たちは、ヤミからカエルを買うことにした。ヤミ族はカエルを食べてはいけないというタブーはあっても、捕まえてはいけないというタブーはない。それからは毎朝、アミの娘がカエルを袋に入れて売りに来た。二匹一元で売ってくれた。

・シナカットとコウトウキシタアゲハ
 蘭嶼生活にも慣れた五日目頃から、私は一人で山に入って蝶を追いかけたり、甲虫採集に忙しかった。蘭嶼はどこに行っても同じで、海岸からしばらくはカヤの草むらが続き、その先はジャングルとなっている。
蘭嶼の中でも比較的蝶の多いのは、イワギヌ付近の山の中だった。
 タロイモ畑のあぜ道を通ってカヤの草むらを抜けてジャングル地帯にはいると、シロオビアゲハ、ベニモンアゲハ、蘭嶼特産種のコウトウキシタアゲハ、コウトウルリオビアゲハなどの大型種が目立ち、胸がわくわくする。 初めて見る蝶に気をとられて、気が付くともと来た道が分からなくなってしまう。道に気をとられていると、珍しい蝶を採り損なう。そんなことを繰り返している内にどんどん時間がたっていく。
一日で三角紙(採集した蝶を入れる三角に折った紙)一〇〇枚は軽く使ってしまうほどだった。帰ってからもう一度採集した蝶を確認する時、図鑑をめくる手が震えた。

 ある日の朝、蝶を採集に行こうと準備しているところにシナカットがやってきた。手にトビウオを捕る大きなアミを持っている。どうやら私の手伝いをしてくれるらしい。でも、あんな堅いアミで蝶を捕まえたら、蝶の羽がバラバラになってしまうだろうに……。そう思ったが、彼の気持ちを傷つけないようにと、シナカットには言わなかった。
その日は、イモルルから東南に四キロほど下った海浜公園まで行って採集することにした。海浜公園にはコウトウキシタアゲハが多く何回も目撃していたが、あまりにも高いところを飛んでいたので捕まえることができなかった。この日は天気も良く、シナカットの協力もあるので、勇んで出かけた。
前回コウトウキシタアゲハを目撃した海浜公園近くの道までは、蝶を採らずにシナカットと話をしながら歩いた。
 シナカットはつい一月前まで、台東で働いていたそうだ。当然の事ながら彼もまた台東の町に馴染むことができなかったようだ。それでも何とか二ヶ月間は働いたらしい。台東の町に嫌気がさして、蘭嶼へ舞い戻ってきたきっかけは、二ヶ月間一生懸命働いて貯えたお金を盗まれてしまったからだという。
 彼に言わせると、都会は嫌だという。私にしてみれば、台東は都会ではなく本当の田舎町だと思うのだが……。
ヤミ族の純真な青年には、人のものを盗むなどということは考えもつかないいことであり、自分のお金を盗まれたことはかなりのショックだったに違いない。
 ヤミ族は自分のことを「タウ」と言う。タウというのは、人間そのものを意味しているのだが、彼等の思い描くタウというのは、人を欺かず、他人のものを盗まず(羊を間違えることはあるが)、掟を破らず、誰にも親切で……自然の中でごく自然に生きている、そんなタウなのだろう。
文明に毒された私たちから見れば、ヤミ族の生活は惨めなように見えるかもしれない。彼等の家にはテレビもなければラジオもない。喫茶店でコーヒーを飲むこともなければ、映画を見ることもない。でも、よくよく考えてみると、むしろ彼等の方がはるかに私たちより幸せなのではないだろうか?
毎日毎日、朝から晩まで神経をすり減らして働いているサラリーマン。マイホームのために、子供の進学のために、人並みの生活をするために働いている。
 一方、時間に追われることもなく、他人に気兼ねすることもなく、その日その日をのんびりとそしてゆったりと暮らすヤミ族。私がもしヤミ族なら、きっと今以上に幸せに感じる時間が多いのではないだろうか?
 そんなことを考えながら、蝶を採ることも忘れてシナカットと話しながら歩いていた。 突然、シナカットが彼方の空を指さした。コウトウキシタアゲハである。真っ青な空に、金色の後翅がキラキラと光る。世界にはもっと美しくもっと大きな蝶はいるだろうが、この時の私には、コウトウキシタこそ蝶の王者であると思えた。
私は、持っていた捕虫網に竿を継ぎ足し四メートルほどの長さにした。シナカットは、トビウオを捕るアミを持って身構えたが、「太高了!」(高すぎる)と言って、諦めてアミを下ろした。
 アミは一回しか振ることが許されない。もし振り損なえば、蝶は急上昇して空の中に消えてしまう。蝶の種類によっては、何回取り逃がしても元の場所に戻ってくる性質を持った蝶もいるが、アゲハチョウ科の蝶はそんな性質は持ち合わせていない。
 コウトウキシタはどんどん私の方に近づいてくる。私は生唾を飲み込んだ。竿を持つ手に力が入った。
この時一瞬私の脳裏に、オオイチモンジを捕り逃がした時のことが浮かんだ。忘れもしない二年前の夏、奥日光で幻の蝶オオイチモンジに出会って、たった一振りのチャンスを惜しくも逃した。忌々しい過去を振り払おうと、近づいてくるコウトウキシタに神経を集中した。そして、思い切りアミを振った!
 「アッァー」
 声を出した時には、蝶は空高く舞い上がり、空の中に吸い込まれていった。
 がっくり道に膝をついている私を見て、シナカットは道ばたにいる蝶を捕まえて、私の所に持って来た。シナカットが私に対してできる最大の心遣いだった。
その日は、蝶の活動が終わる三時頃までその場で頑張った。コウトキシタは三〇分に一回くらいやってきたが、高すぎてアミが届かないことが多く、結局一匹も採れなかった。

・ツツガムシ(赤虫) 
 私は蝶を採集に行った後、必ず海に入る。赤虫という寄生虫が恐ろしいからである。
 人によってはこの島を赤虫島と呼んでいるくらい蘭嶼には赤虫が多い。赤虫というのは0・三ミリ足らずのツツガムシというダニの幼虫のことで、ツツガムシ病の病原菌(ツツガムシリケッチア)を媒介する。ジャングルやカヤの草むらに多く、人間の柔らかい皮膚に食い込んで組織液を吸う。病原菌を持ったツツガムシに食いつかれると、患部が赤く腫れて炎症を起こし、そのまま放っておくと紫色に変わって、高熱を発して死に至る。
日本でもツツガムシ病は、風土病の一つとしてかなり研究されてきた。今では、テトラサイクリンなどの抗生物質で熱もすぐ下がり二、三日で元気になってしまうが、昔は死に至る風土病として恐れられていた。
 ツツガムシは、一生の間に卵・幼虫・若虫・成虫と変態する。人間や動物に寄生するのは幼虫期だけで、若虫と成虫は土中で昆虫の卵などを食べて生活している。土中に産み落とされた卵はふ化して幼虫となり、這い回っている内に人、ネズミなどの宿主を見つけてその皮膚に食い込むのである。
 蝶を追いかけてジャングルやカヤの草むらを走り回った後、必ず海にはいるのは、ツツガムシが海水に弱いからである。
しかし、一度だけツツガムシにおへその近くを食われた。とにかく痒かった。患部は赤く細長く腫れたが、幸いにもそのツツガムシは病原菌のリケッチャを持っていなかったようだ。郷公所の役人に見せると、マッチの軸先で虫をほじくり出してくれた。

・ギナギナ(交換)
 帰りも間近になったある日の朝早く、ヤミの女がやって来た。手にはタロイモの葉数枚を袋状にして蔓で縛ってぶる下げている。全く日本語が分からないらしく、その包みを目の前にぶら下げて「ギナギナ、タバコ!」(タバコと交換)と言っている。
 「中は何だ?」と聞くと、あちこち指さしながら手をばたばたさせる。バッタでも捕まえて持ってきたのかと中を見させて貰うと、中には何とコウトウキシタアゲハの雄と雌が二匹入っているではないか。羽化してから間もないようで、羽はほとんど痛んでないし鱗粉もほとんど剥げてなかった。
 惜しいことには、生きたままタロイモの葉で包んでしまったために中で暴れたのだろう、雄の前翅の主脈がぽっきり折れていた。それでも、これほど綺麗なコウトウキシタアゲハを採ったことがなかったので、さっそくギナギナが成立した。
その女にタバコ五本をあげたが、あまり嬉しそうな顔をしていない。そこで、羽の折れている方の蝶を見せて納得させた。ちょっと可愛そうだったので、もう三本タバコを追加してあげると、しわくちゃの顔をさらにクシャクシャにして喜んで帰って行った。
 こうして手に入れたコウトウキシタアゲハの雄と雌は、今では私の標本箱の中で宝物の一つになっている。

・別れの時
 蘭嶼での十日間は瞬く間に過ぎた。
 来た時と同じオンボロ漁船が私たちを迎えに来た。大勢のヤミの人たちが見守る中、私たちは無言でパッキングを済ませた。私はシナカットに万年筆やら何やら、いらない物を次から次に渡した。だが、あげればあげるほど別れが辛くなるように思えた。シナカットは私に住所を教えてくれとせがんだ。私は残り少なくなった自分の名刺を渡した。シナカットの目には涙がたまっていた。
 イモルル側の海が荒れていたため、船はイワギヌから出航することになった。シナカットは私たちについて、峠を越えてイワギヌまで見送りに来てくれた。
 私はシナカットに必ず手紙を出す約束をして、サンパンで船に乗り込んだ。
 船はしばらくの間、波の様子を見ていた。その間私はずっとシナカットと手を振り交わした。シナカットの二の腕が何回も男らしく目をこすった。じーんと涙がこみ上げてきた。蘭嶼での十日間の思い出が回想された。
船のエンジン音が、来る時とは違って重く感じた。だんだん小さくなるシナカットに向かって、手を振りながら自分で作った歌を口ずさんだ。

 いつかまた来る日まで
 覚えておいておくれ
 きっとまた会える日を
 信じておいて欲しい
 君の国、僕の国
 世界は一つ

今はまだ未開民族として生きているヤミ族、ではあるが、今度来る時には必ず同じアジアの一員として話し合えることを信じて、私は船室に入った。
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[2011/11/03 23:30] | 台湾原住民
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