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台湾台東に関わって40数年、その間に経験した楽しかったこと面白かったことびっくりしたことなど、現地の状況や日本との比較なども含めて紹介したいと思います。
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ある男が町はずれの仮小屋で、一人で暮らしていた。
風体は放浪者のようだったが、町の者に迷惑をかける訳でもなく、物乞いもせず、野草やサワガニや時にはネズミやカエルまで食べて飢えを凌いでいた。
 冬も近づいたある日、男が食料探しに疲れて寒さに背を丸めながら帰ってくると、小屋の前に野良犬が倒れていた。どうやら、道路脇の切り立った崖の上から足を踏み外して落ちたらしい。腰骨が砕け、大腿部の辺りから血が滲み出ていた。犬は歩こうともがくが、ヒイヒイと言うだけで動くこともできない。男が近づいてよく見みると、昼間町の人達が噂していた犬であった。
 一週間前に農家の鶏小屋に入りこみ、ニワトリを数羽咬み殺し、そのうちの一匹を食べてしまった、巷ではブチと呼ばれていた斑毛の犬であった。
 男はその場にしゃがみ込み、時折犬の頭を撫でながら、独り言を言うように話しかけた。
「この様じゃ命が助かっても、元通りには歩けまい。薬もないし、町に連れて行けば袋叩きにあうだけだろうし……。」
翌日、男の小屋の傍らに、小石を積んだ犬の墓ができていた。だが、墓の下にはブチの骨だけが埋められていた。

冬も深まり、小春日和の日だまりにキタテハが羽を広げていたある日、町では一つの騒ぎが起きていた。町長の飼い犬が鎖を切って逃げたまま、行方知れずになってしまったのである。
ちょうど同じ頃、ブチの墓の隣にもう一つ墓が作られていた。墓の下にはやはり犬の骨だけが埋められていた。
その二、三日後の朝、町の駐在が自転車で男の小屋の前を通りかかった。男はちょうど、傍らの沢でぼろぼろになったシャツを洗っているところだった。いつも通りの世間話のついでに、駐在は町長の犬の話しを始めた。ごく普通の柴犬だが、町長はたいそうかわいがっていたという。
「あんた、その犬のこと知らないかね?」
 駐在は何の気もなく男に訊ねた。
すると男は、その犬なら自分が食べて、その亡骸は石の下に埋めたのだと駐在に話した。
 駐在は、側の墓に近づき、暫く腕組みをして考えていたが、おもむろに男に尋ねた。
「この左隣に、同じようなのがあるが、これは何だね?」
 男は、それも犬の墓だと言った。
「それじゃきみ! 二匹も犬を食べてしまったのかい? あきれたもんだな……。駐在所で詳しく話を聞くから、一緒に来てもらおうか。」
 駐在は慌ただしく、男を駐在所に連れて行った。
 男は犬を食べた事実について認めたものの、理由についてはなかなか明かさなかった。
それでも駐在に問い詰められた男は、最後にぽつりと呟いた。
「生きるためかね……」

この町からかなり山奥に入ったところに古い寺があり、男は以前父親とその寺の側の小屋に住んでいた。男の父は、妻と死に別れた後暫くして、幼かった男を連れて北海道からその寺にやって来た。友人だった寺の住職を頼ってのことだった。  
そこで男は、日々山の自然と戯れながら成長した。七歳を過ぎ、寺の住職に読み書きを習うようになってからは、読書の楽しさを覚え、しまいには寺の書庫にあった数千冊もの書物を読み耽るようになった。しかし、知識が増えるほどに、世の中の矛盾に対する様々な疑問が心に湧いてくるようにもなった。
住職は七十四歳の時に病に倒れ、治療のために町に降りたきりそのまま帰らぬ人となった。男と父親はその後もずっと山で暮らしたが、主を失った寺には訪れる者もなく、十年もの間二人は孤立した山の世界の人となった。
その父親も、齢八十を前にこの世を去った。男は天涯孤独の身となり、寂しさや人恋しさを時折感じるようになった。
そこで、ある時、人間の多く住む「町」に下りてみようと決心したのである。
 
町に出てみると、書物に書いてあった町とは全く別の世界が広がっていた。あまりの人の多さと騒音の激しさに、男の目も耳も消耗しきってしまった。それでも男は、町はずれの沢の側に古材を集めて仮小屋を造り、しばらく生活してみることにした。書物で見知っていたラジオというものが欲しかったが、金もないので、マンションの大ゴミの中から古いトランジスター・ラジオを拾い出した。まだ十分使えたので、毎晩ラジオを聞いて過ごし、次第に世間の事情も分かってきた。
電池が切れると大ゴミから少しは使える電池を丹念に見つけ出してはラジオを聞き続けた。そのようにして、男は書物とは違った情報を日々ラジオから吸収していった。
食料は村はずれの岡で採った山菜や、川で捕まえたサワガニやカエルなどで凌いだが、結構一人の生活は成り立っていた。決してコンビニのゴミ箱をあさるような事はしなかった。

駐在は前代未聞の事件に気が動転していたせいか、一番先に男に聞かなければならない事を聞き忘れていた。そこで名前、身元や住んでいる場所を書くように男の前にメモ用紙を差し出した。その時近くの工場から、サイレンの音がけたたましく響き、昼であることを告げた。
 
 まもなく、報告を受けた町長が、福祉課長を伴って駐在所に飛び込んできた。愛犬が男に食べられたことを知った町長は、驚きと怒りのあまり暫くは口もきけず、ただ男を睨み付けているだけだった。
 かなりの沈黙が続いた後で、町長は声を上擦らせながら男に話しかけた。
「君! なんて事をしてくれたんだね! 家族同然のペットを食べてしまうとは……。私のポチなど食べなくても、食べる物ならいくらでもあっただろう。一言言ってくれれば、私がいくらでもあげたものを……。だが、私はね、まあ結論から先に言うとだね、今回は君を許そうと思う。これは、ペットの飼い主としてではなく、この町の町長としてだ。」
町長の上擦った声が少し穏やかになってきた。
「私はね、町長としての職務を誠心誠意尽くしてやってきた。特に最近は『町の人々の人権と環境権を守る事』を一番に考えて町作りをすることに力を入れている。すなわち……。」
 町長はだんだんと演説口調になっていった。
「町の一人一人に、自由で平等な生活をよりよい環境の中で送ってもらう、それが私の理想だ。それが実現できれば、若者の都会流出も減り、この町は日本一の町になるだろう。だから、この町が原子力発電所の建設候補地となった時にも、私は死力を尽くして反対し、その結果原子力発電所は隣町に移ったんだ。今ではこの町には貧富の差がほとんどなく、幸い自然にも恵まれていることから、都会から戻ってくる者やわざわざ移住してくる人達もいるほどだ。」
ここで町長は一息ついて、駐在が入れた冷めたお茶を飲んだ。 
「君の事は、噂では聞いていて、何とかしなければとは思っていたんだが……。生きるために犬を食べるとは……常識では考えられないが、それでも、やはり人権が第一だからね。君もこの町の人と同じように、平等に生きる権利があるんだ。ポチが死んだのは悲しいが、とにかく人権が一番大切だからね。さらに、人権と同様に大切なのは住民の環境権だと思う。」
隣に座っていた福祉課長が、咳払いをして腕時計をちらっと見た。一二時三〇分を回っている、昼休みは後三〇分しか残ってない。だが町長は構わずに話し続けた。
「君は、到底知るまいが、『何人をしても、良好な環境を享受する権利』というのがあってね。実は、ポチは良く吠える犬で近所迷惑になっていたので、町民の環境権を侵すことになっては町長の面目が立たないから、二年前に手術してポチの声帯は除去してあったんだよ。」
男は、その町長の言葉に眉を動かした。
「私は、日本で一番人権と環境権を考えている町長だと自負している。だから、君の今回の件は、君の人権に免じて水に流そう。そうそう、もし良ければ、君にも町立の住宅を使って貰おうじゃないか。それに、何か仕事も探してあげよう。なにせ、あの町はずれの君の小屋は、町の景観を考えるとあまり良いとは言えないからね。」

男は、とりあえず咎められずに済んだ事に安堵した。しかし町長の言っている事が、今ひとつ理解できなかった。
「町長さん、人権や環境権というのは、オレも持っていたんですか?」
「その通り。基本的人権は、人間誰しも生まれながらに持っている絶対普遍の権利なんだ。どんな家に生まれようと、どんな境遇に育とうと、生まれながらの権利だから、何人も侵してはならないわけだ。」
「ところで今、町長さんは、基本的人権と言ったが、人権と基本的人権は何が違うのかね? それとも同じなのかね?」
「人権と基本的人権とは殆ど同じようなものだと思うが……日本国憲法では、主権在民・平和主義・基本的人権の尊重を三大原則として、さらに、その基本的人権の中に、自由権だとか法の下の平等だとか生存権だとか、参政権や請求権なんていうものもあるんだ。」
町長はお茶を一口飲み、ちょっと首を廻してから、さらに言葉を続けた。
「最近では、幸福追求権から派生した、プライバシーの権利、肖像権・知る権利おまけに日照権など様々な権利が保障されていてね、その結果色々なゴタゴタが私達の所まで持ち込まれて、おかげで忙しくてかなわない。」と、町長は少し苛立った口調で言った。
話しているうちにだんだん面倒になってきて、男を放り出して帰りたかったが今更そうもいかず、そこで福祉課長をちらりと見た。
「課長! あとは頼みましたよ。それでは私はまだ色々と用事があるので、後は課長の方でお話を伺いますから。」
 そう言って町長はそそくさとその場を離れた。

男は、福祉課長に向き直って話を続けた。駐在は黙って二人の話を聞いていた。
「その人権とやらはオレの死んだ親父にもあったのだね?」
「そうです。君のお父さんにも、当然人権はありました。さっきも言ったように、どんな人にもある権利なのです。」
「でも親父はどんなことでも一人で決めてさっさとやって、お役所なんかに助けて貰うことなんか何一つ無かったし、人権という言葉一つ親父から聞いたことはなかったがね……。ただ私達の生活は、環境権上は恵まれていた訳だ。とにかく、排気ガスも騒音もないし、毎日がフィトンチットの森林浴で、ストレスなんか全く無いしね。」
福祉課長は、フィトンチットとは何か聞きたかったが、とりあえず膝の上の六法全書を机の上に置き直し、日本国憲法の辺りを開いた。
「オレはどうも町にはなじめそうもないから明日山へ帰るが、山の一人暮らしじゃオレの人権を侵す人もいなけりゃ、オレが侵すような相手もいない。いっそ返したいと思うが、オレの人権はどこへ行きゃ返せるかね?
 それと、念のために聞いておくが、オレのオヤジもそのまたオヤジも人権を持っていたなら、一体どの辺りから人間は生まれつき人権というものを持つようになったのかね? 人間もその昔はサルの様な生活をしていた時代があったというが、もしそのサルの様な人間の祖先も人権を持っていたのなら、山へ帰ってサルを食えなくなっちまう。」
「犬にも、サルにも、人権はありません。動物ですからね。人権は人間にしかない権利なのです。それにしても何故君は、動物を食べる事ばかり言うのですか?
 サルは食べてはだめですよ、山の獣は鳥獣保護法で捕ってはいけない事になっていますから」
「じゃあオレは、一体何を食べればいいんですかい? 課長さん、オレの生きる権利は保障されないのかね?」
福祉課長は、そこで考え込んでしばらく六法全書を括っていた。
「憲法第二五条には、国民の生存権として、『全て国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する』とあるし、世界人権宣言(一九四八年採択)を受けてその十八年後に、国際人権規約が国連で採択され、その六条で『全ての人間は、生命に対する固有の権利を有する。この権利は、法律によって保護される。何人も恣意的にその生命を奪われない』とありますよ。」
 福祉課長は、まるで時間稼ぎをするかのように、ゆっくりと棒読みした。
「国民でないと、生きていく権利もないということかね?
 じゃあ課長さん、人権はいつからあるのかい?
 生まれる前の受精卵にも人権はあるのかね? 死んだ後にはどうなるのかね? とにかくオレにとっては人権云々よりも、今生きていく事の方が先決だ。」
「そりゃそうですが、だからよりよく生きるために、これらの権利があって……。」
「今も昔も、世界のあちこちで人殺しが絶えないが、中には国がよその国を侵略して大量に人殺しをすることもあるだろう。あれは人権侵害にはならないのかね?
 世間では何の罪もない人を殺す奴がいるが、そういう奴にも人権はあるのかね? 心神喪失状態で人を殺しても罪にならないと聞いたが、殺された者の人権は何処にいっちまうのかね。
実は、誰も人権の事なんか分かっていないんじゃないかね?  自由と勝手さをはき違えているのと同じように……。」
福祉課長は、いい加減にしてくれないかというようにため息をついた。
「最近は生きる事の難しさや辛さを知らない人が多くなったようだな。
 オレは山でニワトリを飼っていたが、つぶして食べる時には、本当にすまないなあ、オレに食べられてくれと、申し訳ない気持ちで殺したもんだ。
 野菜を食べる時だって、ありがとうと一言言って食べろと、オヤジから教わっていたよ。
 課長さん、もう一度聞くが、なぜ人間だけに守られる権利があるのかね。人間が生き延びるためには、他の動物はどうでも良いというのかね。」
「いえね、他にも色々法律はあって、鳥獣保護法で野生動物を保護したり、動物愛護法でペットや飼育動物を保護したりしているのですよ。さらには、最近では動物福祉法の動きなどもありまして、これは、食肉用とか実験用動物が不必要な虐待を受けはしないか、殺すにしても苦痛を和らげてあげようとしている訳で、色々配慮しているのです。」
「でもそれは全て、人間のご都合主義でつくったものじゃないのかね。結局は人間中心でそんなことをしていると、そのうち自然のバランスも崩れ動植物も絶えて、そうなると、人間の食料はもう人間以外にはなくなってしまったと言う事にでもならなければいいがね。そうなったときにさて、「人権」はどう守れるというのだろうね。」

男が立ち上がりながらそう言った時、町長が、男の身元と顔をしっかり確認するためにまた戻ってきた。福祉課長がホッとした顔をした。
 男は特別あやまる必要を感じていなかったが、一言、お騒がせしましたと頭を下げて駐在所を出て行った。男が残したメモには、「明晶寺脇、山県有朋の息子、50歳」と書いてあるだけだったが、男の風体からは想像できないほどの達筆であった。
 残った町長と福祉課長と駐在は、互いに顔を見合わせたきり、言葉を交わさなかった。町長の心の中では、言葉とは裏腹に、愛犬を食べてしまった男を決して許すまいという気持ちが徐々に強くなっていった。
 日は西に傾きだし、冷たい風が路上の落ち葉を震わせていた。

野生の福寿草の時期も過ぎ、ホウノキやトチノキが黄緑色に葉を広げ、山桜の淡いピンクが山のあちこちに見られる時期になった。下界では、もうゴールデン・ウィークである。
男は、元の山に戻って生活をしていた。町から持ち帰った物といえば、あのトランジスター・ラジオと少しの電池だけだった。
そのラジオで、寺の本からは得られない新鮮な情報を得ることが、男と世間とをつなぐ唯一のものであった。
この山は林道から3時間も歩いたところにあり、ハイキングコースからも外れていたため、来る人もいなければ、人が住んでいると知られることもなかった。

男は、「人権」について考える事もなかったし、考える必要もなかった。
 今まで通りに、コゴミやゼンマイなどの山菜やアミガサタケやヒラタケなどのキノコを採り、イワナを釣り、時には括りワナをかけてイノシシやシカを捕った。僅かな傾斜地を耕して作った畑に、ジャガイモやトウモロコシ、サツマイモなどの野菜を植えた。畑の周りには、先をとがらせた竹で囲いを作ったが、畑の中の野菜を何としてもイノシシやシカから守ろうとした訳ではない。そんな柵が飢えた山の獣たちにとっては、いとも簡単に壊される事は十分承知していたし、もし仮に柵を壊されて野菜類が荒らされたとしても、自分の食い扶持くらいは残る。それでよかった。また、その荒らされ方で、獣たちの飢えの状態が分かり、自分の生活や猟の参考にもなった。
山の実りが少ない時には、シカは畑周りのハルジョオンの新芽やヤマミツバまでむしり尽くし、イノシシは、竹藪の中をブルドーザーのように掘り返しては、竹の子を食い荒らした。男は時折、獣たちと競争して生きているように感じたが、決して山の獣たちを敵だと思う事はなかった。逆に乏しい食料を分かち合う仲間だという意識の方が強かった。
栃の実などのえぐ味や渋味には平気なシカも、ワラビだけは殆ど食べないので、男の食卓に毎日のように並んだ。
毎年同じようなサイクルの生活ではあるが、それでもその年毎にちょっとした変化がある。そんなささやかな変化が、男に生きている実感を与えていた。
 
 ある日突然、町の駐在が二人で山にやって来た。一人は前の四十前後の駐在で、もう一人は新米の若者だった。町の人口も増えて、駐在所も二人配置になったのである。
男はびっくりした。今まで人が来る事など一切なかった。駐在達は、以前男が話したおおよその内容を頼りに、男の山の家を探し当てたらしい。

中年の駐在は、男の家に着くと直ぐに水を二杯たて続けに飲み、それから話し出した。若い方は、ただ黙って話を聞いているだけだった。
「実はなあ、町長があんたを告訴しようと考えてるんだよ。」 駐在は、汗を拭き拭き切り出した。
「動物愛護法というのがあってな、みだりに愛護動物を殺した時には、一年以下の懲役または百万円以下の罰金に処されるというのがあるんだが、あんたは知らんだろうな。」
 若い駐在は、メモを取り出した。
「ただし、町長の犬は鎖を切って逃げ出した訳だから、町長の方にも管理責任があって、過失相殺という形になるんだが、どうやらあんたの責任は免れないようなんだ。」
「オレに何をしろというのかね?」
「こういう場合は、最終的には裁判所が判断するのだが、示談という方法もあって、町長の要求を呑んでくれれば、町長は告訴をやめても良いと言っておられるんだがね。」
「その要求というのは何だね?」
「ちょっと言い辛いんだが、この町からあんたに出て行って貰いたいという事なんだ。町長はまた犬を飼いだしてね、今度は少し大きな犬なんだが、またあんたに食べられたら困るとでも思っているんだろうよ。」
排斥処理か……、最も簡単な方法だ。男が心の中で呟いた
「オレには行く当てがないから、その要求はのめないなあ……、それに、オレはこの町には住んでいないことになっているんじゃないかなあ。
 確か親父は死ぬ前に、お前には事情があって身よりも戸籍もないと言っていた……。」
「それでは、あんたは日本の国民として認められていないことになるのかね?」
「いや、天皇陛下だって一般の戸籍は持っていないが日本人だし、日本の国籍法では『日本で生まれて国籍を持たないものは、日本国籍を取得する』とされているはずだから、そうなりゃオレだって、今からでも日本の戸籍は取れるはずだ。」
駐在は、頭の中が混乱してきた。
若い駐在が近づいてきて小声で言った。
「先輩!」
実は、年配の巡査は、巡査部長の試験になかなか合格できず、正式な役職名ではない「巡査長」と呼ばれる事に抵抗を感じていた。そこで高校の後輩である若者がこの駐在所に配属された時、二人だけの時には「先輩」と呼ぶように若者に言っておいたのだ。
「この人いろんな事知っているようですね。」
「ああ、そこの寺の中にある本は全部読んで、全部頭の中に入っているらしいんだ。最近ラジオも聞いているから、最近の事件にも結構詳しいようだ。」
駐在は小声で返した。
「その本が置いてあるところ、ちょっと見てきてもいいですか?」
「ああ……。」
 若者は、寺の横にある土蔵の入り口から、おそるおそる中に入っていった。
「ええっ!」
若者は驚いて目を見張った。中は埃だらけの古びた本が乱雑に積み重なっているものだろうと想像していたが、ちょっとした図書館のように綺麗に整理された本が並んでいたのだ。若者はゆっくりと書棚を見て回った。百科事典が3セット、日本文学全集、自然科学の本、仏教関係の本、哲学や中国・中世ヨーロッパなどの思想関係の本もあり、図鑑や辞典類に到っては若者が聞いたこともない分野の本まであった。なかでも、六法全書と広辞苑が、特に手あかで汚れていた。
若者は、慌てて駐在の所に戻ると、小声で言った。
「あのー、あくまでも私の直感なんですが、ここはとりあえず引き上げた方が良いと思うんですが。」
「何を言っているんだ。町長に頼まれた事をきちんと処理しなけりゃ帰れんだろう。」
「でも、戸籍のない人を相手に町から出て行けとか、そんな事言っても始まらないんじゃないですか? ここは一旦引き上げて、もう一度良く作戦を立て直してみないと、収まらなくなりますよ。」
 駐在は何かあると勘づいて、膝を叩いて立ち上がった。
「他に用事もあって忙しいので、今日は町長の意向を伝えるだけで帰りますが、後のこと、良く考えておいてくださいよ。また来ますからね。」
 駐在は、若者に目配せして先に歩き出した。二人は、初夏の美しい山の景色には目もくれずに山から下りて行った。

 この時期の山は山菜の宝庫と化す。
山菜がふんだんにあるので、動物たちも活発に動き回り、ワナをかければ結構な鹿や猪が捕れた。男にとっては、食べるものに全く困らない季節である。男の使うワナは、自然の木とちょっとしたロープを使った括りワナである。父親が生きていた頃は、秋田マタギのように「平落し」というワナもかけたが、一人ではそれもできなくなった。 
しかし、鹿や猪を一匹でも仕留めれば、それを塩漬けや薫製にして、一ヶ月は十分食べていけた。男は、必要以上に獲物を捕ることはしなかった。それは、山の動植物は神からの授かり物だと父親に教えられたからであり、そんな生活を、もう五〇年近く続けてきたのである。ここに来て町からもたらされた厄介な事が起きたが、男はあまり気にしていなかった。

二人の駐在は、町に戻ると直ぐに町長の家に行き、事の次第を話した。町長は、顔を真っ赤にして怒鳴った。
「君たち、何をやっているんだね。何も解決の方向に向かっていないじゃないか。早くあの男をこの町から追い出すんだ! このままじゃ、お前達は首だぞ!」
町長の拳に力が入った。
「町長、お言葉ですが、私達は警察官で、町長の一存で首にはできないと思いますが……それに、相手は戸籍もない人間のようで、どう話して良いのやら皆目検討も付かない状態でして……。」
「とにかく、あいつの、あの男の素性を調べ上げろ!」
「はい、分かりました。では早速、当たってみます。」

 二人は駐在所に戻ると直ぐに男の事を調べようとしたが、実際に戸籍が無いことも判明し、何から手を付けて良いのか分からず、途方に暮れてしまった。
「先輩、あそこの寺には以前住職が住んでいたという事ですよね、それにあの男の父親もいた訳ですよね。少なくとも、その二人には戸籍か住民票があったと思うので、そこから手を付けたらどうでしょうか?」
「そうだな、とにかくその二人から調べてみよう。じゃあまず、二人の住民票からあたってみてくれ。」
「了解しました。」
 
若者は、寺の住職の住民票が過去にあった事は突き止めたが、男の父の住民票は見つからなかった。
そこであちこち手を尽くして、山の登り口にある人家の古老から、男の父親についての情報を入手した。
 その結果は以下の通りだった。 
 古老の話によると、寺は明晶寺という禅宗の寺で、住職の名前は高橋庄一郎といった。男の父親の名前は、山形有明。高橋と山形は、どうやら北海道中富良野の同郷の関係だということだったが、古老はそれ以上のことは何も知らなかった。
そこで若者はさっそく、北海道中富良野町から高橋と山形の戸籍謄本を取り寄せた。さらに、戸籍をたよりに中富良野の二人の実家にも電話をしてみた。しかし、もう代替わりしていて、思ったほどの収穫は得られなかった。
 高橋の兄二人は既に無くなって、長男の息子の代になっていた。   
 山形の実家には年老いた富江が結婚もせずにいたが、最近老人性痴呆症になってしまい、電話口には出てこなかった。電話を受けた男が、富江に山形のことを聞いていたようだが、すすり泣くような声が電話口からもれ聞こえただけだった。
それでも、分かったことは以下の通りである。

高橋庄一郎は農家の三男坊として生まれ、中学を出てから中富良野の真言宗の寺「広照寺」に坊主見習いとして修行に入った。二十歳の時に徴兵検査を受け「甲種合格」となって直ぐに召集され、陸軍兵士として満州に渡った。終戦を迎え命からがら日本に戻ったものの、その後、中国・インド・ネパール・インドネシア・台湾などに修行という名目で渡航している。
一方山形有明は、昭和二年三歳の時に、秋田県の角館から家族揃って北海道中富良野に移住した。父の名は有三、母の名はミワ、山形は、次男坊だった。

ミワは、山形有明を産んで直ぐに亡くなったようである。したがって、父有三が長男と三歳の山形を伴って北海道に渡った時、同行した妻のフミは後妻であった。有三と後妻フミの間にはその後一男一女が生まれているが、ミワとの子供である長男の角男は、五歳の時に死んでいる。

 戸籍などからこのような事実が分かったものの、山形の子供である山の男については、三歳まで中富良野にいたというだけで、他には何一つ情報が得られなかった。
 そこで、次にこの町の元巡査ですでに定年退職している伊藤安友にあたってみることにした。彼は原子力発電所のある隣町に住んでいた。
 伊藤はすでに七十一歳であったが矍鑠としていて、快く話してくれた。伊藤巡査がよく明晶寺を訪れていたことは、山の入り口近くの古老が教えたのである。
 伊藤は、山形と高橋のことをよく知っていた。山形が山の動物を捕らえることが違法行為であることは分かっていたが、特に取り締まることもせず、かなり親しい間柄だったようである。
 そのために山形親子についてもよく知っていた。以下は、多少の憶測も交えた伊藤の話である。

 山形には、昔「春」と言う名の恋人がいた。その恋人と結婚してできた子供が、山の男であった。しかし、春もまたミワと同様男を産んで直ぐに亡くなってしまった。場所は、夕張の炭坑町だったようである。
山形は、男が生まれても出生届を出さず、その結果男は戸籍がない状態になってしまったのであるが、 それには、山形のある考えがあった。と言うよりも一種の世間に対する反発のようなものであった。
彼が春を亡くした時、同じように子供を出産した女がいた。その女は男の子を産み、母子ともに安泰であった。その女は、炭鉱会社の重役の妻であった。春はかなりの難産で生命の危険があったにも拘わらず、医者はその重役の妻に掛かりきりで、その結果、春は何の手当ても受けられず死んでしまった。
 金持ちと貧乏人とはどうしてこうも違うのか……? 貧乏人の命は救ってもらえないのか……?
山形は、悲嘆に暮れ何日も泣き明かしたが、今となっては何の救いも得られなかった。
彼は煩悶し、その結果敢えて自分の息子の出生届を出さなかった。そして、山の男は、山窟(サンカ)のように戸籍がないままに大人になってしまった。
生まれた子供の出生届を出して戸籍に入れるのは、戸籍制度のある日本においては親としての義務である。山形の場合、子供としては理不尽な扱いを受けた訳だが、父親には父親の思いがあったのである。

 さて、山形と高橋の関係であるが、山形は中富良野に移住してきた三歳の時から、隣の農家の三男坊で五歳上だった高橋とは幼なじみになった。高橋が寺で修行をした時も、学校帰りに寺に行っては良く話をしたものだった。
 「あんちゃんの家の兄弟は、一番上が『彦一郎』、二番目が『紘一郎』で、三番目のあんちゃんが『庄一郎』と皆『一』が付くが、なんでだね? 普通は、一・二・三の順番だろう?」
「親父の話だと、庄一郎、庄二郎、庄三郎と付けたら、何だか下の子供が可哀想だって思ったんだと。 お前の母ちゃんも、女の子供に『子』を付けると早死にするから付けないって言ってたぞ。家によっちゃ、名前については色々とあるもんさ。」
「……そうか。母ちゃん、そんなこと言ってたんか……。じゃあオレが結婚して子供ができたら、女の子には子という名前は付けない事にするよ。」 
「それが良いかも知れないなあ。」
山形は、5歳上の高橋からいろいろと教えられ、何でも話す間柄だった。

 山形は、その後親戚の伝手を頼って夕張に出て、炭坑夫として働いていた。一九歳の時に徴兵検査を受けたが、1944年の「臨時召集延期制度」により、炭坑夫という理由で兵役を免れた。
 二十四歳の時に、炭坑町の食堂で手伝いをしていた二つ年下の春と知り合い、二年後に結婚した。有明は、好きになった女が「春子」ではなく「春」であったことに、何となく安堵した。ところが、結婚して直ぐに春は男を生み、そして帰らぬ人となった。
当時石炭は「黒いダイヤ」ともてはやされていたが、戦後復興や車の普及に伴う石油やガソリンの需要に押され、夕張では昭和四十年代後半から閉鎖に追い込まれる炭坑も出てきた。そのあおりを食って、有明は東京に出稼ぎに出なければなくなった。乳飲み子は、中富良野の実家に預けた。実家では、幸い後妻の産んだ腹違いの妹富江がまるで自分の子のように乳飲み子を可愛がってくれた。有明は心やさしい富江に心から感謝し、男は父と離れていても、暖かい環境の中で育つことができた。

出稼ぎに出た山形に与えられた仕事は、建設現場での力仕事ばかりだった。 きつい仕事には何の辛さも感じなかったものの、コンクリートのビルに囲まれた仕事場で、全国各地から集まった大勢の人間と仕事をするのは山形の性に合わなかった。さらに、人間付き合いが不器用な山形には、これといった友人もできなかった。

一年ほど経ったある日、飯場近くの飲み屋で、秩父から来たという一人の男に出会った。その男は、炭焼きをしながら、山葵を栽培していたが、本業は猟師で、猟がある時には全国様々な土地から誘いがかかるという腕の持ち主だった。山形は、その男とすっかり意気投合し、出稼ぎ現場をやめて秩父で炭焼きの仕事を手伝う事になった。

山形が作業をしたのは、秩父浦山の奥からさらに数時間歩いた山奥の炭焼き小屋で、同時にその辺り数ヶ所の炭焼き小屋も手伝った。クヌギやミズナラ、クリなどを伐り倒し、それを背負子に担げるほどの大きさに切り、炭焼き小屋まで運ぶのが主な仕事であった。時には火の番や窯作りの仕事も手伝った。ビル建設現場の仕事よりもはるかに辛いきつい仕事ではあったが、自然の中である事と、よけいな人間関係に気を遣わなくて済む事が、山形にとっては何よりも快適だった。
炭も、石炭と同じように需要は落ちていたが、品質さえ良ければ茶の湯用や焼き肉・焼き鳥用などに安定した消費が見込まれたので、山形は、いかによい炭を作るかの毎日の仕事にやり甲斐を感じていた。

炭焼きの仕事にも慣れ、さらに一年が過ぎようとしていた頃、中富良野の実家経由で高橋からかなり長い手紙が届いた。五年ほど海外で修行を積み、最近福島県のS町の山奥に寺を開いたという。理由は詳しく書いてなかったが、真言宗から曹洞宗に改宗したともあった。 「知識は身を助ける。経験によってその知識が役に立ち自らの考えが生まれてくる。その考えこそが自分の人生そのものである。その知識を得るために本をたくさん用意してある。とても良い所だから是非一度遊びに来い。」と、手紙の最後に書かれていた。
中富良野に預けた息子は、戸籍もないままそろそろ三歳になるので、早く引き取る必要があった。そこで有明は、自分の息子をこの男のもとで育てようと決心した。

それからまもなくして、山形は中富良野の実家から三歳になった息子を連れ出し、高橋のいる福島県の明晶寺を訪ねた。五十五歳になった山形の父には、これまで育ててくれたことに感謝し、できればこの後は、そっとしておいて欲しいという旨の書き置きを残した。富江の寂しさを思うと心が痛んだが、幼子がいない方が早く結婚ができるはずだと思い、富江の幸せを心から祈った。

山の自然に囲まれた環境の中にある明晶寺に移り住んでからの生活は、やはり山形には快適なものであった。毎晩のように、僅かな酒と山の幸を肴に高橋と語り明かした。話の殆どが、中富良野の思い出や、山の事であった。
しばらくして、山形は明晶寺の直ぐ側に簡素な自分の小屋を建てた。木挽き鋸や鉋などの道具は、全て高橋が準備してくれたし、作業も手伝ってくれた。
家を得たことで、山形と息子はいっそう安らかな暮らしを、山の自然の中で送ることができるようになった。

山で暮らしているとはいっても、高橋と山形親子三人の生活の一部は、高橋が時々町の人に頼まれて行う葬式のお布施で賄われていた。高橋は町で、米・味噌・醤油・塩などを買い込んでは山形に与えていた。冬場で人が多く死ぬ時期や、盆暮れなどのかき入れ時には、酒も多めに買うことが出来た。山形は、息子と共に山を駆け巡っては山の幸を集め、酒の肴や副菜となる料理を常に高橋の分まで作っていた。粟を植えてアワ酒も作った。男は、そんな父の姿を見ながら山の生活を肌で覚えていった。
高橋が亡くなった後は、彼が貯めていたいくばくかの金が山形に残されたが、しかしその金は一年と持たなかった。しかたなく、山形は山で捕らえた熊の胆嚢や毛皮などを売り、米と塩を買った。それもない時は、畑で作った芋で凌いだ。

伊藤元巡査の話は、こんなふうだった。
伊藤の妻の母親が肺炎をこじらせて他界した時、高橋は相場の半分ほどの料金で葬儀も戒名も引き受けてくれた。それが子供三人をかかえ余裕の無かった伊藤には大変ありがたかった。そんな縁もあって、伊藤と高橋は親しくなった。また、伊藤はM大学の山岳部に所属していたこともあって、山歩きを趣味としていた。山歩きのついでに明晶時も訪れて、山形やその息子とも知り合うことになった。
山というのは不思議なもので、山の自然の中にいると見ず知らずの間柄でも、自然と心を開き合うものである。そんなこともあって、伊藤は彼ら二人から様々なことを聞いていたようである。
伊藤は退職してからも、時々明晶寺を訪れては、様々な話をしていた。
二人の巡査は、すっかり伊藤の話に引き込まれて聞いていた。高橋と山形の一風変わった人々と、伊藤のゆったりした語り口に何がしかの魅力を感じていた。そしてその後、分かったこと全てを町長に報告した。しかし、その時町長は多忙のあまり、たいした反応を見せなかった。

さて男は、戸籍を持っていなくとも、山の中の生活では何不自由なく暮らすことができた。学校にも行かなかったし、保険証も持っていないわけだが、そのかわり、税金をいっさい払う必要がなかった。
水疱瘡、はしかなどの病気も一通りしたが、高橋が買い揃えていた常備薬と薬草、後は安静することで治せた。学問については、先ず高橋から基礎全般を教わり、あとは蔵の本を次々と読むことで、その奥行きを広げていった。
男は、時には暴風雨などの自然現象にも耐えながら、自然の恵みを受け、自然と共生した。
それは、原始的な生活を送っていた頃の人間と同様な生き方であり、価値観だった。ただ一つ違うのは、山の外の世界には高度な文明があり、男が求めれば知的な情報が傍らの書物からいくらでも得られることであった。

自然と人間の関係について、最初に考えたのは西洋の哲学者達であった。アリストテレスは、動物は理性を欠いている存在であるゆえに、人間が自由に使える資源であるとした。ピタゴラスやデカルトも、アリストテレスにほぼ同調した。
キリスト教的自然観においても、自然は利用し征服すべきものという思想の上に成り立っている。
これとは対照的なのがアメリカインディアンであり、また他の様々な先住民族であった。彼等は、自らも自然の一員であり、自然と共生しなければ自らも滅ぶと考えていた。
しかしそういう自然観を持つ民族はことごとく、西洋の先進的武器を持った民族に駆逐されてしまった。人権の意義を最初に表明したフランスやその近隣諸国が、国益のために植民地を増やしていったのは皮肉な事であった。

さて、男は、自分が生きていく上で、「できればこうしたい」と思う事が幾つかあった。
生きているものを食べずに済めばそれに越したことはないと思った。でも、それでは自分が死ぬ事になる。そこで、男は生きているものを食べる時には、心からの敬意を払った。父親から教えられた通りに、食事前に「いただきます」と言う時は、心から「あなたの命をいただきます」という思いでその言葉を言った。
 今生きている動植物が、正しいバランスのまま、すべてが絶えないでいて欲しいと思った。ある動物が増えても、その結果ある植物が絶えてしまうのではバランスが崩れる。動植物のアンバランスな関係が続けば、長い間には、人間も生きてゆけないことになる。
 長い地球の歴史の中では、確かに進化の迷路に入り込み絶滅を余儀なくされた生物が数多くいたことも事実ではあるが……。
そうならないためにも、今の自然が、正しいバランスで存在する事が何よりも大事である。しかし、現在の法律は、むしろバランスを崩している。

男は、父から聞いたある老人の言葉を思い出した。父は、その老人の炭焼きの仕事も手伝っていたのであったが、ある日父が傷ついた子鹿を見つけ、抱いて連れ帰った。足を痛め群れから置き去りにされ、後ろ足の傷口にはウジがわいていた。父は子鹿の傷を癒して山へ返してやろうと思った。しかし、老人は鹿に付けてやる薬はないときっぱりと言ったという。
日頃さんざん田畑を荒らされながら、動物保護法があるために何も打つ手がない。自分達の生活を苦しめる動物に対しての、これ光の一言だったという。
政府は動物を保護する法律を作り、動物はむやみに殺してはいけないと人に強制している訳だが、そのために人間の生活が損なわれることになるのは、それはおかしなことである。鹿も人間も共存していける方法は何か無いのだろうか。
鹿が畑を荒らすのは、一つには森に餌が少ないからである。動物を育むはずの森が、今や変わってしまった。
今山を見渡すと山肌は殆ど緑に覆われ、一見自然が豊かに保たれているように見える。しかし、実際は植林された針葉樹がその緑の多くを占めている。これは戦後、生育が早く建材としても価値が高いということで主に杉の植林が行われた結果であるが、その後、外国産の木材が安く輸入されるようになり、採算が取れなくなった杉林は、間伐・枝打ちもされぬまま放置されることになってしまった。そのような人手の入らぬ荒廃した杉林がいたるところになるのである。
 針葉樹の植林は、広葉樹を伐採してまで広げられたので、動物の住みかであり、また餌の供給源でもある広葉樹林は年々姿を消していった。近ごろは広葉樹林の価値が見直されてきているが、一度伐採された森は、直ぐには復元できない。苗を植えて元の豊かな森に戻すには、百年単位の時間がかかるのである。その間に動物は、山里を荒らしながら滅びてしまうことであろう。

 このような事態を生んだのは、自治体や政府の自然保護や動物保護に対する政策の甘さの結果である。長く山に暮らしている人々は、どのようにして自然を保護し、バランス良く自然を維持していったらよいのかを熟知している。バランスさえ保たれていれば、たとえ畑を荒らす動物とも共存できるのである。

男は、二人の駐在が帰った後も、それまでと変わらぬ生活を続けていた。
 町長は、何とかしてこの男を町から出て行かせたかったが、に仕返しをしたかったが、良い方法を思いつかなかった。
 男を無理矢理追い出したら、男の生活権・生存権を侵すことになる。戸籍がないならそれらの権利も無いのかもしれないが、しかしそうなると、なぜ戸籍のない男を町が放置していたのかということで、自分の責任も問われかねないし、マスコミも黙ってはいないだろう。そんなことを考えて町長は、すっかり面倒になり、しまいには男が死んでしまえばいいとまで思うようになった。

そして月日が過ぎた。
 男の生活は以前通り変わる事は無かったが、年とともに体力も少しずつ衰えてきた。ワナをかけてイノシシを捕まえても、その処理に苦労するようになった。
 一方の町長も歳をとった。幸い再選を果たし、まだ町長の職にいた。
歳を取るにつれて、町長の男に対する考え方が少しずつ変化していった。
 人間関係のストレスも面倒な仕事もなく、日々を気ままに生きているあの男が羨ましくさえ思えるようになった。町長は毎日膨大な仕事や際限なく寄せられる苦情を処理して、すっかり疲れ切っていた。かつてあの男になぜあれほど憤りを感じたのかさえ、今となっては不思議に思えた。
 自分のやってきた事が本当に正しかったのかどうかさえも、分からなくなった。以前、原子力発電所をこの町に作ることを阻止して、その結果それは隣町にできた。その結果自分は再選を果たせたが、環境を考えたら全く変わらなかったのではないか。
そんなことを考えているうちに、町長はあの男にもう一度会ってみたくなった。国籍もないまま生活しているあの男は、自分よりよほど素晴らしい人生を送っているような気がした。男は確か自分と同じ歳だったはずだ。国とは何だろう、国籍とはなんだろうとまでふと考えてしまった。
 町長は、早速男の住み家を知っている駐在所の巡査に電話をして、男に会う手はずを整えた。


秋とはいえ下界は真夏日であったが、山には涼しい風が吹いていた。
町長と二人の巡査は、山の男なら三時間足らずで登れる道を、四時間かけて登っていった。しかし町長は山道を登りながら、すっきりした気持ち良さを感じていた。実際は息が切れて辛いのに、どうしてこう心が浮き立つような清々しさを感じるのだろうと不思議に思いながら、一歩一歩登っていった。
 途中で食べた握り飯が、また格別に美味しく感じられた。 

男は、突然の三人の訪問に、特にその中に町長がいたことに驚いたが、しかし、久しぶりに人に会えたので多少の懐かしさを感じた。

「町長さん、随分お久しぶりですね。それに駐在さん達も……。いったいどうしたのですか?」
「いや、ちょっと君と話がしたくてね。」
「それにしてもひどい汗だ、汗を拭いて沢の冷たい水を飲んでください。」
「ありがとう!」
「そこの警察の旦那方は、まだ同じようだね。出世もしないで、この町にいるのかね。」
若い方が答えた。
「まだまだ勉強不足で、よその土地で活躍できるほどまだ成長していません。」
「前よりはずいぶん背も伸びたようだがね。」
「今、自分で法律の勉強をしています。」
「それはよい事だ。でも、法律にもおかしな事が沢山あるから気をつけて勉強しなさいよ。」
「はい!」
 若者は、かなりかしこまった様子で答えた。
 男は、駐在所で話した時とはうってかわって、ごく自然な話しぶりだった。自分が子供の頃から育った、自分のテリトリーだという意識があったのかも知れない。

しばらくして、町長は男に質問した。
「あんたは、人間をどう思っているのかね? いや、人間というものはどうあるべきだと思っているのかね?」
「町長さん、何でオレにそんな質問をするんですか。そんなことは、町長さんともあろう人なら分かっている事でしょうが。」
「いや、今日はその事を聞きたくてわざわざやってきたのだから、是非答えてくれたまえ。」
「初めに断っておきますが、私は学校にも行っていないし、日本の戸籍もない男です。そんな男の話をわざわざ聞きに来たとは思えませんが、何か魂胆でもおありですか?」
「いや、だからこそ、君の考えが聞きたいのだよ。……最近……色々な苦情があってね。特に都会から移住してきた人達は、かなり細かな事で苦情を言ってきたりするんだが、頭が混乱してきて、情けない話だが、何が正しくて何が良い事なのかも判断できなくなってきてしまったようなんだよ。こちらを立てれば、あちらが立たず……。そんな毎日なんだ。」
 町長はちょっと情けないような顔をした。
「私が何を言っても、咎めたり怒ったりしませんか?」
「ああ、もちろんだとも。」
「特に町長さんは、人権にうるさい人だし……最近は、ちょっとしたことを言っても、やれ人権侵害だとか、差別用語だとか、暴力的発言だなどと、下手に会話も物書きも出来ないような世の中ですからね。」
 男は一呼吸おいた。
「ところで町長さん、あんたはこの町をどうしたいとお思いですかね?」
「そりゃ決まっているよ。都会に勝るとも劣らない便利で、快適な生活が送れる町。さらには自然に恵まれた豊かな町。前にも言った事があるが、とにかく人権と環境権を大切にする町だ。」
「町長さん、あんた欲張りすぎだよ。」
「ど、どうして!」
「ほら、もう怒った。」
「いや、いや、怒った訳じゃない。欲張りだなんて言われた事がないから、びっくりしただけだ。ええーと、道路拡張の時だって、自分の土地を言い値であっさりと町に引き渡したし、町立病院を作る時だって、表沙汰には言えないが、北海道に親が残してくれた土地を担保にしてまで建設を続けたくらいだからね。」
「そう言う事を言っているんじゃないんだ。町長が今言った『便利さ』、『快適さ』、『自然に恵まれた』、『豊かな』という言葉は、人によっても全く違っていると思うがね。ある人にとっては便利さも、ある程度の便利さでいい人もいれば、もっと便利が良いと思う人もいる。快適さだって、自然を壊してまで快適さを求める必要はないと思う人もいる。豊かさにしても、金が十分にあれば豊かだと思う人もいれば、自然が豊富な事が豊かだと思う人もいる。人間は本質的に傲慢でエゴイストだから、自分が思っている事が全て正しいと思うものだ。」
巡査と若者は、男の話に一々頷いていた。
「町長が言う、便利、快適、自然、豊かさという四拍子が揃うことは先ずある訳がないと思うね。ただし、過渡的にはそのような状態が生まれる事もあるにはあるがね。さらに、強引にそうだと言える状態にする事もできない事はないだろう。」
「私はそういう町を作りたいんだ……。」
「だから、欲張りだと言っているんでしょうが。ところで町長さん、逆に質問しますが、町長さんにとって人間とは何だとお思いですか?」
「そりゃ、先ずは、この地球上で一番賢い動物さ。それに……。」
「いやー、町長さん。賢いという言葉は私も大好きですよ。頭が良いと言われると、馬鹿にされたような気になるが、賢いと言われると褒められていると思えるからね。」
「君に賢いといった訳じゃなくて、人間とはという話の中で、人間は賢い動物だと言ったのだが……。」
「頭が良いというのは、色々な事を知っていたり覚えていたりするだけで、馬鹿に知識を詰め込めば、頭は良くなりますからね。」
男は少し笑いながら言った。
「その点、賢いというのは、その知識をふんだんに利用して、色々な事を予見したり判断したり対処したりできる人の事ですからね。でも、今の地球上に賢い人は一体何人ぐらいいますかね?」
「私は、賢い人間だろうか?」町長は即座に口を挟んだ。
「それはともかくとして、町長さん。さっき貴方は、ヒトは地球上で賢い『動物』だとおっしゃいましたよね。それでは、動物とヒトの違い、動物と植物の違い、生物と無生物の違いは分かりますか?」
「まるで高校の生物の授業だな。」
「私はこういう根本的な事から、人権というものを考えないといけないと思っているんですよ。人権というものを、他の動物や植物やそして自然というものと切り離して考えてしまうところに、先ず問題があるように思えるのですがね。」
青空がにわかに曇りだして、雨がぽつりと町長の肌を打った。
「人権とはヒトの権利ですから、ヒトという者がどういうものなのかをはっきりさせないと始まりませんよ。私は立体的なピラミッドを考えて、その頂点に人間がいると考えているんですがね。少なくとも、平面の中心に人がいて、放射状に色々な動植物がいるとは考えていないんですよ。これはたぶん、教科書の生態系の所にも書いてある事だと思うがね。
もし、人間が偉大だから大きく見せたいと思うなら、逆に独楽のようなものだと思ってもいいんですよ。独楽の下が小さな自然で、上の大きい方が人間の世界だとしても同じ事なんです。
ピラミッドでは、大きな自然の上に人は乗っかっているわけで、そうなると、ヒトというものをどんな観点から考える時でも、その基礎となっている偉大な自然を抜きにして考える事はできないでしょう。ピラミッドの元が崩れたら、上もみな崩れ落ちちゃいますよね。
 さらに、独楽だとすると、小さな下の自然の勢いが無くなると、上の大きな方も下が止まるのと一緒に止まってしまう。」
 
 雨が少し激しくなってきたので、皆は男の家の中に入った。外から見るとバラックのように見えるが、中は小綺麗に整理してあったし、真ん中の古びたテーブルの周りに、4人が座っても十分な広さがあった。椅子と言っても、少し大きめの杉材をただぶつ切りにしたものだったが、切り口が黒光りしていた。奥にはベッドが二つあったが、一つは物置に使われていた。小物が入ったりんご箱や段ボールのミカン箱が重ねられていた。それは以前、山形有明が使っていたベッドだったのだろう。
男は家の中にあるストーブに薪をくべて、湯を沸かした。
「こんな所で暮らしていて、不自由を感じた事はないかね?」駐在さんが低い声で言いながら、家の中を見回していた。
「不自由ねえ……? この先歳をとって、身体が言う事を聞かなくなった時に、そんな事を感じる事があるかもしれないなあ。」 
「あ、そうそう。例の件、告訴の件は取り下げるそうですよ。ねえ、町長!」と、若い巡査が言った。
「ああ、実は君にポチを食われて、たいそう腹を立てていたのは事実だよ。だから、告訴して君に仕返しというか、責任を取ってもらおうと思ったのだがね、どうも効果のない事が分かったし。君をこの町から追い出してみたところで、何の解決にもならないような気がしてね。」
町長は、薄く煙った家の中から、窓の外の雨を見た。
「半年前に、実は車で、移住してきたばかりの人の飼い猫をひき殺してしまってね。
 とにかく急に飛び出してきて、どうにもならなかった。
 立場上、花や菓子折や香典まで持って謝りに行ったんだが、びっくりしたよ。祭壇までできていて、ヒトが死んだ時の葬式のようだった。家中の人が目を真っ赤に腫らして泣いていて、私が入っていくと『人殺し!』と言われてしまった。さすがの私さえ異常に感じたね。」
「それはお気の毒なことでしたね。」
 男はお茶を入れて出した。
「この辺りは霧が良く出るので、結構良いお茶が採れるんですよ。」
皆は一斉にお茶をすすった。
「ほんとだ! おいしい。自分で作ったんですね。」と、若い巡査が言った。
 町長が独り言の様に話し出した。 
「最近は、ペットが家族になっているようで、ペット保険まであるからね。さすがに、ペットの死亡保険はないようだ。死亡保険があれば、保険金詐欺が絶えなくなるからね。ペットの癌保険や入院保険まであるようだが、さすがに私もそこまではしなかったね。
 その時私は、君がうちのポチを食べてしまった事を考えた。ポチは死んだが、飢えていた君は生き残った。私は猫を殺してしまったが、人殺しとまで言われた。その時は何だか頭が変になったよ。」
町長は窓際からテーブルに戻って、またお茶をすすった。
「町長さん、オレがおたくのポチを食べた時の話をしましょう。私は理屈を付けるのは嫌いなんで、お話ししませんでしたがね。あの日、丘の上に野草を採りに行っていたんです。野草と言っても冬場ですからたいしたものはないんですが、それでも、ロゼット状になったハルジョオンなんかは探せば結構あるんです。
 あそこからは県道が南北に走っているのが良く見渡せるのはご存じでしょう。一瞬、キャンと言う悲鳴のような声を聞いて道路を見ると、そこに血まみれになった犬と、走り去るトラックが見えたんで、直ぐに下りていって犬を見ると、可哀想にもう死んでいました。私は抱いて小屋に持ち帰り『私の血と肉になれや』そう言って食べました。」
町長の目から、涙がこぼれていた。
「いくらオレでも、人様のペットまであさって食べたりはしませんよ。」
「いや、今日ここに来て本当に良かったよ。君の事も少し分かってきたような気がする。そうだったのか……。」

「町長さん、質問の答えはどうしますかね?」
「是非聞きたいな、君の考えを……。」
「現実をよく見る事が先ずは大事ではないかね。これはオヤジも良く言っていたがね、真実ってやつは現実をよく見て、それをよく考えるところから始まるんだそうだ。当たり前の事だが、考える時には、絶対に間違った考えをしてはならないから、歴史をよく見ろと言われたもんだ。」
若い巡査のノートに書き留める手が早くなった。
「オレが、なぜ人間嫌いで、人間中心の事になると腹が立つかというと、人間の勝手さなんだろうな。
 今の世の中見て見ると、近代的な国家もあれば、まるで国中が奴隷のような生き方をしている国だってある。未だに、狩猟採集生活をしている民族もいれば、パソコンでゲームをするやつもいれば、高級車を乗り回している連中もいる。そうかとおもえば、戦争をしている国や民族紛争をしている国もある。日本はどちらかというと傍観者のようだがね。というよりは、世界の自然を破壊する手助けをしているようだがね。
 そして、彼等が住んでいる場所は、皆この地球の上だ。自然の中だ。 都市などと言う半分自然を破壊した場所も一部あるにはあるが、その周りに水と自然がなければ近代的な都市も成り立たない。4大文明の発祥の地を見れば一目瞭然だとおもうが……。
 ヒトの状態を見れば、悪いやつもいれば親切なやつもいるし、仕事を一生懸命やっているやつもいれば、親のすねをかじって生活しているやつもいる。虐めをしているやつもいれば虐められているやつもいる。」
男は話しながらお茶を入れ替えた。町長はもう結構という仕草をした。
「次に、地球を考えると、人間も含めた自然で成り立っている。その自然は、単純なものではない。動植物から菌類に到るまで、かなり複雑に絡み合ってバランスを保っている。最近になって、海でよい魚を沢山捕るためには、山を守らなければならないという事が言われ出した。地球の長い歴史から見れば一秒前にもならないようなつい最近の事だ。
 そして、その自然を覆っている環境だが、空気・水・土が汚れたら、自然も汚染される。汚染された環境の中では自然も汚染されやがて滅びていく。こういう分かり切った事は人間なら誰でも知っているはずだ。何百年も前から……。」
町長はちょっとため息をついた。いつもの癖で首をグルッと回した。そのとき、タンスの上に古ぼけてセピア色になった写真があるのに気づいた。ヘッドライトが付いているヘルメットをかぶった男と、その脇に可愛らしい笑顔の女が写っていた。そのヘルメットの格好から、その男が炭坑夫である事は直ぐに分かった。
 町長も五歳までは、北海道の夕張という炭坑町に住んでいた。炭鉱会社の重役の三男坊だった。五歳の時にこの町の大地主の親戚に養子に入った。懐かしい思いで、その写真を眺めた。
外の雨はまだ降り続いていたが、少し明るくなってきたように感じた。

 「便利、快適、自然、豊かさ、人権。この中で異質なものは何ですかね、町長さん?」
「あんたはまた私を欲張りだと言うだろうが、私はこれ全部が欲しいんだよ。この町を素晴らしい町にするためには、ぜひとも全部欲しいんだ。」
「さっきも言いましたがね、人によって考え方はまちまちだが、『便利』と『自然』だけは相容れないものだと思うがね。だから、便利をはずしてしまえばいいんじゃないだろうかね。さっきも駐在さんに不自由じゃないかい? と聞かれたが、五〇年間こんな生活をしていて、便利さ以外はこんな山奥にもあるだろう。人権も私にはあるという話だから。」
 駐在さんは、何かを思い巡らしているような顔つきをした。
「便利な方が確かに良いが、最近では、ジョギングとかいって走ってわざわざ汗を流す人や、スポーツジムに金まで払って、自転車みたいなものをこぎに行っている人までいるという話だね。ああいうエネルギーはみんなどこかに消えて無くなってしまうが、もったいない話だなあ。そりゃ世の中には、無駄が必要な事もありますがね。」
「便利な事をしてはいけないという事かね?」
「そうはいっていませんがね。
 産業革命以来、世の中どんどん便利になってきましたが、それでどうなりましたか? 車や機関車が作られて、それで人が死んだりする事も出てきたし、武器が作られて大量殺人ができるようになった。テレビの見過ぎで目が悪くなる子や、勉強をしない子供も出てきた。IT革命で子供までパソコンを持って遊んで、外に出て自然の中で遊ぶ事を忘れている子供も多い。昆虫採集や植物採集をすれば、自然破壊だと文句を言われる。そうかと思えば、庭に雑草がはびこれば、何の考えもなしにむしり取り、ビニール袋に入れてゴミの集積所に持っていく。これは庭の砂漠化の始まりだと思いますがね。
 話に聞くところでは、最近は便利さより自然や健康を第一に考える人が増えてきたという話でしょう? 何も今この町にある素晴らしい自然を犠牲にして、さらに大金をかけて都会と同じ便利な町にする必要はないでしょう?
 便利になった事で、生活のテンポは速くなって良くはなったが、何一つ素晴らしいと思える事はない。そういう私も、今ではラジオだけは手放せませんがね。」

「君の言った言葉の中で、人権が何となく異質に感じるのだが……。便利さを抜いたとしても、残りの言葉は、快適、自然、豊かさで、何となく分かるが、特に君にとって人権は異質ではないのかね?」
「オレは人権を否定しているんじゃないんです。人権の本当の意味と意義を見つめて、人権が叫ばれた本来の姿になって欲しいんですよ。
そもそも人権とは英語では「human rights(ヒューマン・ライツ)と言うそうですが、ヒューマンは人間で、ライツは権利です。でも、ライツというのは、本来「正しい」という意味を持っています。すなわち、人権とは、人間がごく普通に正しく生きていくための権利なのでしょう? ところが、ごく普通の人間が、ごく普通にと言うより死なずに生きていきたいと叫んでも、今の世の中誰も助けちゃくれません。そして行き詰まって自殺までする人もでる。
そうかと思えば、人並み以上の生活をしている人が、人権を盾にさらに色々な権利を言い出すような事もある。権利と言うくらいだから、義務というものがあって然るべきだが、人間としての最低の義務も果たさない人間にまで人権というのはあるように思えますね。 
 人権という言葉が一人歩きをして、何にでも勝るというような考えを正して欲しいだけですよ。そのためには、本当の人権というものがどういうものであるかということを、きちんと大人が考えて子供達に教育する必要もあると思うがね。
今の世界の状況を考えると、どうしても人権思想とは矛盾する事が沢山あって……中には戦争をするのは人のDNAが悪いんだなんて言う学者すら現れる始末だ。
 自然の大切さ、動植物のありがたさ、環境への本当の意味での思いやり、そういう事を身を持って体験し覚えさせていく事が先ずは大事なことだと思うがね。」
雨が止んで、薄陽が差してきた。
「それから、人権とは何かという事を色々な人に聞いてみると良いですよ。過去の人間の歴史や今暮らしている私達の現実を見て、矛盾無くきちんと人権について答えられる人が一体いるのかどうか?」
「……。」
町長が、駐在さんの癖が移ったかのように膝を叩いて、立ち上がった。
「君、山形さんとか言ったね。君の戸籍の件は、私が何とかしよう。早急に日本国籍を取ってこの町の住民になって貰おう。」
「それはありがたい話ですが、町長さん、できればこのままそっとしておいて下さいませんか?」
「どうしてだね?」
「戸籍を取ってこの町の住民になれば、税金だの何だのと国民の義務とやらが出てきて……ごらんのように私には税金も払えないし、私ももう五十過ぎですから、このまま静かに山で過ごしていたいんですがね。だめでしょうかね? その代わり国民の権利は何一つ要求しませんから。」
「死ぬまで戸籍を持たなかった男か……、そして、素晴らしい人生を送った男。それも悪くないか……。」
町長は、雨上がりの雲を見上げながら心の中で呟いた。

町長は、五十六年前の三月二十日に夕張のある病院で生まれた。ちょうど同じ日の同じ時刻に、同じ病院で生まれたのがこの山の男だった。町長が生まれた時、医者は炭鉱会社重役の妻のお産に掛かりきりで、そのために男の母親の春は、男を産んで間もなく死んだ。
この事はそれから後も、男も町長も誰も知らなかったし、知るよしもなかった。
それから町長は生き返ったように机に向かって仕事をするようになった。時々窓から、遠くの町境にある原子力発電所を見た。そして、ゆっくりと山の方を見やった。

 男は、畑で一心に鍬を振り下ろしていた。
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[2011/11/05 15:27] | 読み物
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