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台湾台東に関わって40数年、その間に経験した楽しかったこと面白かったことびっくりしたことなど、現地の状況や日本との比較なども含めて紹介したいと思います。
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第六次海岸山脈(1982年8月、昭和五十七年八月)

海岸山脈は、台東市の北、都蘭山(1189m)から北北東の花蓮方向に延びる山並みで、大部分が火山岩から出来ている。別名都蘭山脈とか台東山脈とか呼ばれていて、最高峰は新港山の1682mで、その頂上の位置は平面で海岸から 7kmしかない。
 したがって、平均斜度は15度近くにもなり、都蘭山付近では15度を超す。海から山の間には、当然海岸、国道、畑や水田など比較的平坦な場所があるから、海岸山脈の海側は、山の途中から大断崖となる。
そしてこの連続した大断崖がコバルトブルーの海と重なり合って、台湾有数の景勝地「東部海岸風景特定区」を作り出しているのである。

 山が急峻で、人の近づけない断崖が多いと言うことは、それだけタイワンザルがいる可能性も高い訳で、事実アンケート調査の結果でも、この地域からの情報が多かった。それに、第四次、第五次の二度の調査でも、この都蘭山系でタイワンザルを確認している。

M大学による第四次調査では、五名の隊員が一ヶ月間、知本と都蘭の山に入った。しかし、タイワンザルの観察は、知本で二回、都蘭で三度それもごく短時間確認しただけに終わった。
 また、第五次調査では、都蘭山と都秀山(827m)を結ぶ尾根の東側の谷で、同一群を断続的に四日間で四回確認し、また一部観察も行われた。この群れは、十五頭から二十頭くらいの群れで、木ゆすり行動やグルーミング行動も観察されたが、地形的に100m以上も離れた所からの観察しかできず、細かなことは一切分かっていない。それでも、群れの大きさなどについて、断片的に推定できる程度の成果があったと言って良いだろう。

私たちは、四日分の食料を準備し、成功(ツェンコン)(以前は新港(しんこう)と呼ばれていた)行きのバスに乗り込んだ。約一時間半の間、美しくうねる海岸線と、ブルーに輝く太平洋を眺めて過ごした。
東河(トンホー)でバスを降りると、虎さんが紹介してくれた二人の案内人が待っていた。
一通りの挨拶をして、約束の案内料として、一人二百元を渡した。二人の案内人は受け取ったばかりの二百元を持って、そそくさと近くの雑貨屋へ入り、一人二本の赤いラベルの米酒を大事そうに抱えて出て来た。高砂族にとっては、ビンロウ、米酒、タバコが生活に欠かせない三種の神器のようである。

案内人の後について、山の方に向かって歩き出した。
 村から山麓までは、所々にコウスイガヤ(香水茅、レモングラス)の畑がそのまま手入れもされずに残っていた。海岸山脈の東側は土地も狭く水も少ないために、水田はあまり多くない。一昔前までは、水の少ない土地にはこのコウスイガヤを植えて生計を立てている農家も多かった。
レモングラスと言えば、最近では香料や料理・漢方薬として欠かせないハーブだが、当時はその主成分のシトラールを石けんや化粧品の香料として利用していた。しかし、シトラールが工業的に合成できるようになってからは、この辺りのコウスイガヤの畑も荒れて、あちこちに痕跡が残っている程度になってしまった。
コウスイガヤの畑を抜けると、前面の断崖まで土地の起伏に合わせて、棚田が広がっていた。二回目の田植えから一月ほど経っているようで、遠くの水田は太陽の光に反射して萌葱色に輝いていた。

 ゆるい登りにかかると、雑草が押し倒されて出来た車の轍も消え、道幅も急に狭くなった。少しずつ、少しずつ、大断崖が近づいて来る。右手の山の切れ込みから、階段状の水田が扇形に下に向かって続いている。上の田から下の田へ落ちる水の音が涼しげに心地よく伝わっては来るが、私たちの暑さと汗を静めるほどの力はなかった。
ビンロウ樹に囲まれた人家が途切れる頃、大きな龍眼の木陰に建てられた小さな作業小屋についた。まるで、子供の頃庭の片隅に遊びのために造った小屋のような作りで、入り口も狭く、背の高さほどしかない。彼等は、水田作業の合間にここで休んだり、食事を取ったりするのだろう。薄暗い内部は、煮炊きした煤で真っ黒になっていた。

二十分ほど経った時、ひょいとアミの青年が現れた。髪は赤く焼けて、身体は木の枝のように細く、着ている物もたいそう粗末なもので、裸足であった。
 時折私たちの方へ目を走らせながら、案内人の二人と何やらアミ後で話をしている。話が一段落したらしく、青年は小屋に入り、腰に蕃刀を下げゴム靴を履いて出て来て、二人の案内人と伴に私の前に立った。案内人の一人が話し出した。

「Nさん、この人は“高(こう)”さんと言いマス。この近くの山のことはとてもよく知っていマス。私たちはそれほどよく分からないので、この人を一緒に連れて行きマス。一日二百元と話しましタ。先に二百元渡してください。後は降りてきてからで良いでショ。」

 そう言えば、虎さんが今回の山行きの案内人の件で、確かに言っていた。
 「…後は二人の案内人が何とかしますから、大船に乗ったつもりでいてください!」
こういう事だったのか?
 
 「この高さんは、アミ語しか喋れないンダ。だから私達も一緒でないと、あなた困るでショ。それにこの青年は字も書けませんから、筆談も出来ないンダ。」
確かに困る!
 私は二百元をその青年に手渡した。
「謝謝!アリガト」
どうやらこの程度の中国語と日本語は理解できるようだ。彼は二百元をズボンのポケットにねじ込んだ。
結局、五名の隊員に三人の案内人がついた。当時、駅弁一個が四十元だから。二百元は、隊員五人の一回分の食事代に匹敵する。毎日、六百元が飛んでいくことになるわけだから、五人の一日の食費が全部消えてしまうのと同じ事だ!
 学生時代だったら、お金を出してまで案内人を頼むことなど考えもしなかったが…、学生でなくて良かった。この案内料は私たち日本人にとって、そう高いものとは思えなかったが、彼等にとってはたいそうな現金収入であろう。さらに、彼等の食事も全部こっち持ちになっていた。
出来れば案内人は一人で良かったのだが…。

 私たちは、一本の沢をどんどん登り詰めていった。道がないので、沢づたいに歩くしかなかった。滝になっている所では、蕃刀で木をなぎ倒しながら沢を巻いて登った。
 青年は、沢の石をひょいひょいと跳び回り、、夕食用のカエルとサワガニを捕りながら登っていた。
 私たちの荷は重く、必死になって彼等を追うので、歩くだけで精一杯であった。浮き石もあるし、とにかく薄暗い沢の中だからよく滑る。慎重になれば遅れるし、遅れまいとすると危ない。五人とも、何度も沢の水に足を取られながら、無言でただひたすら登った。
 五人の中でも特に運動不足の三十四歳の私には、かなりきつい行軍であった。
 苦しい時には、頭の中を空っぽにして、山歩きの機械になったつもりで歩くのも一つの方法であるが、雑念がちぎれ雲のように脳裏を掠めだすと、よけい辛く苦しくなる。
 単純な山登りなら、頂上に辿り着いた時のあの清々しさを思い浮かべながら、我慢して歩くことも出来る。しかし、今はどこが終着点かも分からない。
この時の私は、今まで経験した最も辛かった体験を思い出して、それよりはまだ楽なのだと、自分を励まして歩いていた。

 学生時代、探検部の合宿ではずいぶん無理をしたものだ。今この年になって考えると、信じられないことも多かった。
大学2年の時、八ヶ岳で行った新入生歓迎合宿兼、雨池山岳湖沼調査合宿では、30kgもあるゴムボートをキスリングの上に載せて登った。
徹夜麻雀で一睡もせずそのまま合宿に参加して、奥秩父山塊の国師ヶ岳・金峰山へ登ったこともあった。その時は自分が先ずダウンするのではないかと心配していたが、先にカゼでダウンした後輩のキスリングを、自分の荷物の上に載せて登り切った。
無人島宇治群島の向島での、酷暑の中でのヤブコギ。冬山登山合宿の中での、猛吹雪の中でのラッセル。どちらも辛くて苦しくて死ぬ思いであった。
 あの頃は、若さという自信で無茶も出来たし、本当に気合いも入ったものだが、三十代で体力の衰えを感じた時は、自分が自分でないと感じるくらい驚き、ショックを受けた。 その後も、五年から十年に一度、同じようなショックを感じ続けているのだが…。

四時間ほど登っただろうか。すでに沢の水はなくなり、涸れ沢となっていた。
 太陽も西に傾き、上り詰めていた東側斜面は薄暗くなりかけて、高度のせいか幾分涼しくなってきたように感じた。
青年が、二人の案内人に何かを話している。登っている間、彼は一言も口をきかなかった。しばらくして、涸れ沢の左にテラス状の十坪ほどの草地が現れた。
 案内人の指示で、今日はここに泊まることになった。
 直ぐにテントを二張り張った。草地で平らに見えるが、下は石がごろごろしていて、テントを張る前に少し整地はしたが、張ってみると下はやはり石だらけであった。
草地の両側にテントが張られ、その中間が炊事場になった。
皆が手分けして、火をおこしたり、夕食の準備と荷物の整理に取りかかる中、実は私は直ぐに下山しなければならなかった。
東河から20kmほど離れた成功(新港)へ、ある人を訪ねるためである。何でわざわざ登ってきたのかというと、荷物運びのためと、東河の山奥の様子が知りたかったからである。
 わたしは、サブザックにカメラ類を押し込み、一人でたった今苦しい思いをして登ってきた沢を、一時間で駆け下りた。

東河の国道に出ると、ちょうど成功行きのバスが通りかかったので、手を挙げて乗せて貰った。

新港は、台東市の北北東50kmに位置する台東随一の漁港であり、現在は成功と改称されたが、地元の人々は日本時代からの名称である新港の名で呼ぶ人が多い。
東部海岸風景特定区の中に入っており、近くには三仙台や石雨傘などの観光名所も多い。

終点の公路局成功バス停に降り立ったのは、日もとっぷりと暮れた七時過ぎであった。
 道沿いの家前のあちこちでは、道路にテーブルと椅子を持ち出して酒盛りをしている。夕涼みと一家団欒と、そして宴会が一緒くたになったようで、何ともほほえましく羨ましい限りだ。
 今晩はとにかくどこかのホテルに泊まらなければならない。バス停から200mほど行った所にホテルらしいものが見えた。他に宿屋らしい建物は見あたらなかったので、そこに決めた。
隣の海鮮料理屋で、一人にしては久し振りに豪華な夕食をとった。
日本人が珍しかったのか、それとも日本人は金持ちだと思っていたのか、店のおばさんはしきりに新港の名物の魚や刺身を勧めてくれた。一人だとどうも気が弱くなって断り切れず、おばさんの勧めるままに、カジキの刺身、小ぶりだがキアマダイが一匹入ったスープ、二人前はあろうかというチャーハン、さらに瓶ビール一本もつけてしまった。締めて、日本円で一〇〇〇円、ホテル代が二〇〇〇円だから、やはりかなり豪華な食事ということになる。
 ピンクがかったカジキの刺身は、味は淡泊であるが私は結構好きだ。ただし、ワサビがだめだ。そして、醤油も頂けない。
 台湾のワサビは、日本のワサビと違って辛みが少ないために、大量に使わないと辛くない。その大量のワサビの中に醤油を入れてかき混ぜるから、ドロドロ状態になる。 
 台湾のワサビは紛い物だとよく言われる。しかし、日本のワサビにしても、一般家庭で使われる粉ワサビやチューブ入りの練りワサビは、本物のワサビだけで作られている訳ではなく、ホース・ラディッシュ(西洋ワサビ)が多い。だから、台湾のワサビについてとやかく言いたくはないが、それにしても辛くない。

そんなワサビ醤油に、綺麗なピンクのカジキの切り身を浸けると、コールタールを付けた様な不気味な状態になってしまう。コールタールとカジキの肉片が、口の中で美しいハーモニーを奏でる事などある訳もなく、そこを、新港のカジキは美味い!と言う絶対的な先入観で補うのだ。

醤油は、どちらかというと関西の刺身醤油に近い味で、さらに甘ったるいような、口を開けてから半年ほど経ってしまったような…そんな味だから、どうも頂けないのである。
私は、関東生まれの関東育ちで、ごく普通の醤油に慣れ親しんでいるから、さっぱりした醤油で刺身を食べないと、食べた時に気持ちも口の中もきゅっと引き締まらない。

最近では、日本のワサビも醤油も台湾で手にはいるので、問題はなくなったのだが、ワサビの量だけは変わらない。何と言ってもあのドロドロのワサビ醤油の歴史は、半世紀以上も続いていたのだから…。

次の日の朝、私は成功の鎮公所を訪れた。
 私は台東縣政府の秘書課長陳さんの紹介状を持っていた。さっそく、陳秘書課長の友人でもある王課長に会って、私たちの目的を説明し協力を求めた。
 私が今回新港に来た目的は、ある一人の台湾人に会うためであった。名を「潘(パン)」さんという。
昨年から今年にかけて行ったアンケート調査で、二九通の回答の中では、藩さんからの回答が最も詳しかった。どこの山に何群いて、群れの大きさはおよそ何頭ぐらいだというようなことが事細かに書かれていたのである。 だから今回の調査では、必ずこの藩さんに会って話を聞かなければならないと思っていた。 直接藩さんに会って話を聞くことも出来たが、藩さんはここ成功鎮公所の公務員であったことから、上司の承諾があれば本人も動きやすいだろうと言うことで、紹介状を貰い先ずは藩さんの上司王さんに会って話を進めようとした訳である。
王課長は、席を外すと直ぐに藩さんを伴って戻ってきた。
 体格の良い人だった。

藩さんは、狩猟が得意で、漢方薬の材料の採取や調合もするという。しょっちゅう山に出かけているせいか、日焼けして高砂族のように精悍に見える。四十歳半ばとはいえ、日本語は良く通じる。
早速彼のオートバイで、藩さんの家まで連れて行かれた。125ccのヤマハのオートバイは、たいそう年季が入っていたが、エンジンの音は良い。
 奥さんに紹介された後、直ぐにタイワンザルの聞き込みを始めた。
藩さんは、かなり正確にサルの生息地と群れの数を記憶していた。それに、サル以外の山の動物のことについてもとても詳しかった。
 居間の隅には、無造作にミサゴやキジの剥製が置いてあり、飾り棚には猪の下顎骨がいくつも並べられていた。他にも動物の骨や皮などがあちこちに散らばっていて、まるで博物館の準備室のようである。

 ぜひ、野生タイワンザルを見たいのです、とお願いすると、 
 「分かりました、昼飯を食べたら見に行きましょう!」
何とも簡単な返事で、呆気にとられた。
そんなに簡単に見られるのだろうか?
 
奥さんの作ってくれた焼きビーフンの昼食をご馳走になった後、私は藩さんのオートバイの後部座席に跨(またが)り、奥さんに昼食のお礼と別れを告げた。
藩さんの奥さんは外省人なので、日本語は一言も喋れない。藩さんとは年がかなり離れているのだろうか、藩さんに比べてえらく若く見えた。ぽっちゃりとした可愛らしい奥さんの口から「再見!」と小さな声がかすかに聞こえたと同時に、オートバイはけたたましい音を立てて、猛スピードで走り出した。
私は一瞬後ろに置いていかれそうになったのを全身で堪えたが、次の瞬間に左顔面を藩さんの背中に思い切りぶつけた。前で藩さんが何やら言っているようだが、エンジンの音で良く聞こえない。
 どうやら自分の腰につかまれと言うことらしい。私が躊躇していると、早くしろと怒鳴る。下は砂利道の上に凸凹で、後ろで私が勝手にふらふらしていると、バランスが上手く取れず運転しづらいのだろう。
前で運転しているのはガッシリした体躯の藩さんで、可愛い小姐ではない。どうも気が進まないが…命には代えられないだろう。それにしても、何で中年男の腰というか腹というか…抱きつかなければならないのかと、ちょっと情けなくなった。
 この日はトータルで3時間くらい、生まれて間もない子猿の様に、三十過ぎの中年男が藩さんの背中にしがみついていた。

先ずは、西に走って新港山の麓を案内して貰った。ここ三民里(サンミンリ)に数群いるという。
 次は、忠仁里(ツォンレンリ)を走り抜けて一気に和平里(ホーピンリ)の和平まで南下し、さらにそこから西に山に向かって十五分ほど走ると、小高い丘の上に出る。 そこが信義里(シンイーリ)だが、和平里と直ぐ南の信義里(シンイーリ)には、十数群はいるであろうと、藩さんはちょっと得意げに話した。
実際に行ってみると、丘の上からは、海岸山脈の東側に、新港山から南に延びる尾根が一望できた。東側斜面は、亜熱帯特有の深緑の自然林で、所々に竹藪も見られる。360度ぐるっと見渡すと、太平洋の海と山の緑が気持ちよく広がっている。思わす深呼吸したくなる。
 前面の斜面の中段を指差しながら、藩さんが説明してくれた。
 「成田さん!あの竹藪の所まで行くと、下はサルの遊び場になっています。ここのサルは、あそこの場所がとても好きなんだ。」
 「そうですか、良く来るんですか?」
 「毎日のように来ますよ。山の方から、バッサ、バッサと…」
ちょうどその時だった。
 「藩さん! ち、ちょっと待ってください! あれ!あれ、サルですよ!」
そう言いながら、私はサブザックの中からカメラを取りだした。
偶然にも、尾根からさっき藩さんが言っていた竹藪に向かって、数頭のサルが木の枝を大きく揺すりながら、降りて来ているではないか。あまりにも遠くて、サルの姿は豆粒のようだが、間違いなくタイワンザルであった。 サル達が竹林の近くまで降りて来たあと、木の揺れは消え、風に穏やかに撓(しな)う樹冠があちこちに見られるだけとなって、斜面全体がひっそりともとの静けさに戻った。
竹藪の下で戯れるサル達の姿を想像しながら、またオートバイに跨(またが)った。 成功を出てから、かなり長時間オートバイの後ろに乗っていたので、お尻が痛くなってきた。発情期のメスザルのように、赤くなっているかも知れない…。

山道を走りながら、藩さんは私を東河まで送りましょうと言ってくれた。オートバイは暫く山道を下ってから海岸道路を右折し、左手に美しいコバルトブルーの海を見ながら南下した。
 都歴(トリー)、小馬(シャオマー) を通り、馬武溪(マーウーシー)の大橋を渡ると、東河である。山の登り口でオートバイから降りた。
 「また会いましょう!」
大声でそう言うと、藩さんは土煙を立てて帰って行った。

私は、サブザックだけの身軽な格好で、皆の待つ山の中へと向かった もう道もだいたい分かっているし、サルを確認したという嬉しい情報も持っている。足取りは軽かった。

藩さんは、その後の調査においても、惜しみない協力をしてくれた。事情があって、ある時期から藩さんにはお目にかかれなくなってしまったが、彼と奥さんには、本当に心から感謝している。
 
藩さんの情報がかなり正確で信用に値するものであることも分かり、アンケートの内容はその後藩さんの情報を中心に整理され、さらに私たちの調査結果も加味されて、台東縣の長濱郷から都蘭山に至る海岸山脈東斜面に生息する野生タイワンザルの群れの分布がかなりはっきりした。
結果は次の通りである。
 
 長濱郷に少なくとも1群。成功鎮の新港山と博愛里にそれぞれ少なくとも3群。三仙里に4群。三民里に5群。和平里と信義里の間に13群。信義里の登仙橋付近に少なくとも2群。東河郷の泰源の6群。北源に少なくとも2群。都蘭山に少なくとも2群。
 合計41群が生息していることになる。このうち、和平里と信義里の13群は、泰源の6群と重複している可能性があるようだ。
また、群れのサイズについては、10から20頭くらいと考えられる。
さらに、海岸山脈の花蓮縣下に4カ所の生息地が確認されているので、重複している可能性を差し引いても、海岸山脈一帯には少なくとも39群が生息していることになる。
海岸山脈の一帯は、山麓を中心に広く開墾が進んでいるため、サルが利用できると思われる範囲を仮に標高200m以上とすると、その面積はおよそ400k㎡となる。したがって、群れの密度は、0.1群/k㎡、1群当た
りの平均行動面積は10k㎡となり、これは
暖温帯広葉樹林に生息する日本ザルの群れの密度に匹敵するものである。
 一方、タイワンザルに比較的近い環境に生息していると思われる屋久島のヤクザルの群れ密度1.0/k㎡に比べるとかなり低い数字になる。
この原因は、やはり人による狩猟圧と開墾であろう。現に、狩猟圧のほとんど無い知本温泉の群れでは、45頭からなる1群がおよそ2k㎡を遊動域として生活しているのである。
 それにしても、タイワンザルにはまだまだ分からないことが沢山残っている。

海岸山脈のベースキャンプに戻ったのは、もう日もとっぷり暮れて、皆で食事をしながらパラチオン(米酒)を飲んでいる最中だった。
 私も早速残り飯をかき込み、彼等の話に加わった。あまり盛り上がっていない様子を見ると、私のいない間の成果はほとんど無かったようだ。私は、藩さんと和平の山麓でサルを確認した話をした。
 「とにかく、ここは山が深すぎて、何も見えない。開けた場所もないし、ジメジメしてまるで井戸の中のようだ。」
 皆口々に、そんなようなことを呟いている。
キノコ博士のFさんも、ほとんどキノコの採集が出来なかったようで、口数が少なくなっている。
たき火を囲んで色々と相談した結果、明日朝この山を下りることになった。

私たちは、海岸山脈の東河山中では、結局サルを見ることが出来なかった。
台東に戻って直ぐに、調査隊を解散した。私たちはもう学生ではなく、仕事を持っている者、予備校でアルバイトをしている者、ニホンザルの調査の予定が入っている者などがいたので、来る時の予定は合わせることが出来ても、帰りの予定はまちまちであった。
キノコ博士は、予想を遙かに下回った収穫の穴埋めをするために、阿里山に寄ってから台湾大学の菌類研究室をもう一度訪ねると言って、次の日の朝高雄に向けてバスで出発した。
MさんとTは、仕事の関係で一足先に日本へ帰るということで、やはり南回りで台北に向かった。
 3人を送り出した後、アンケートの内容と聞き込み調査を再検討して、私とMは墾丁公園(コンティンコンエン)に行くことにした。

次の日の昼過ぎ、私たちが乗ったバスは左に海の景色を見ながら南下して、途中大武で休憩を取り、寿峠を超えて日の暮れかかる頃楓港(フォンカン) に着いた。そこでバスを乗り換えて、恒春(ヘンツン)まで行った。
 恒春に着いた時には、もう墾丁公園行きの最終バスはなく、恒春の安宿に泊まることになった。
 せっかくなので、宿屋の人に聞いて、サルの聞き込み調査を一件だけ行った。

 そして翌朝、墾丁公園に向かった。
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[2011/11/12 00:06] | タイワンザル
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